あれこれいろいろ

普通は残らない庶民の歌が残った奇跡 庶民の歌 梁塵秘抄から

東洋でも西洋でも、古い王侯貴族の音楽は多少残っても、庶民の音楽はめったに残りません。当時の庶民はまだ教育や経済力に乏しく、自分たちの歌を記録に残す価値があるとも思っていなかったでしょう。

ところが古代から中世に移り変わる平安末期に、学問も経済力もある後白河法皇が、庶民の音楽をコレクションして梁塵秘抄を書き残すという、画期的なことが起こりました。これは古今東西稀なことで、世界的に貴重な記録なのだということを是非とも強調しておきたいと思います。

梁塵秘抄には、宗教的、哲学的、美的に魅力あるものが沢山ありますが、こんな歌詞はわざわざ残さないだろうというような、見過ごされがちなものも沢山残っていて、私はそこにかえって価値を感じます。そんなものこそ一番最初に歴史から消えゆくはずのものだからです。そんなものにこそ900年前の庶民感覚がよく見えて、ああ人間ってやっぱりこんなだな、という共感も感じられます。

たとえばこんなもの。

「我を頼めて来ぬ男 角三つ生えたる鬼になれ さて人にうとまれよ 霜雪霰降る水田の鳥となれ さて足冷たかれ 池の浮草となりねかし と揺りかう揺り揺られ歩け」

訳:私に頼みに思わせておいて、そのまま顔も見せないあの男め 角が三つ生えた鬼になってしまえばいいんだ そして人に嫌われてしまえ 霜雪霰が降る凍えた水田に降りる鳥になってお前の足なんか冷たくなってしまえ 池の浮草になっちまえ あっちへゆらゆらこっちへゆらゆら あてどころなく世間をさまよい歩け

平安時代の人は、こんな歌詞に節をつけて歌ったと思うと、なんとも言えないおかしみがあります。これを聞いた人は、次々並ぶいら立ちの言葉に、思わず吹き出したり、ゲラゲラ笑ったりしたことでしょう。そしてその腹立ちの裏側にある、まだ消えない男への思いもきっと感じとって同情もし、さして変わらない境遇のわが身を顧みて自分を慰めもしたことでしょう。

またこんなのもあります。

「冠者は妻設けに来んけるは 構へて二夜は寝にけるは 三夜といふ夜の夜半ばかりの暁に 袴取りして逃げにけるは」

訳:あの男が妻問い(嫁探し)に私のところに来たことには、二晩いい感じに共に寝たことには、三日目の夜半も過ぎた明方には袴を取ってすたこら逃げたことには…(まったくもう)

これもなかなか笑えます。笑いながら同情を禁じ得ない。同情するけどよくあることだよね、という軽みもある。そんな歌だと思います。

少し趣向を変えてこんな歌も。

「遊女の好むもの 雑芸 鼓 小端舟 おおがさかざし とも取り女 男の愛祈る百大夫」

訳:遊女が好きなものは 雑芸(踊り物まね曲芸など) 鼓 客を招き入れる小さな舟 客の相手をしている間に舟の舵をとってくれる女仲間 客と女の体を大がさをかざして隠してくれる女仲間 それからいい男の愛(客)を連れてきてくれるよう祈る路傍の石仏

遊女たちの暮らしぶりが見えるようです。遊女たちはチームを組むことで粗暴な客や身勝手な客から身を守っていたのかもしれません。そして道祖神にいつも手を合わせて、身の安全と良い客を心から頼んでいたのでしょう。そんな歌詞を見ていると、どうか遊女たちを守ってやってくださいと、こちらまで道祖神に頼みたい気分になってきます。

今様は、白拍子、傀儡女、遊女など、貧しい女性たちが歌っていた芸能なので、そんな女性たちの気持ちや置かれた立場を歌うものが多くあります。顧みられることの少なかった庶民の言葉を、宝物のように集めた後白河法皇は、着眼点がやはり並みじゃありません。

 

 

 

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