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後醍醐天皇、足利尊氏、足利義満の楽器 雅楽をめぐる政治の様相

鎌倉時代から室町時代ころの、天皇と武家の楽器事情を概括すると、

「龍笛、笙などの管楽器に比べると、琵琶や和琴などの弦楽器の方が格が高い」

という意識があり、次のような楽器の棲み分けがあったそうです。

天皇家の嫡流→琵琶(時に和琴も加わる)を学ぶ

天皇家の傍流→龍笛を学ぶ

武家の頭領→笙を学ぶ

このような棲み分けが政治的な思惑を反映して崩れるケースもあり、例えば、後醍醐天皇は、元々天皇家傍流として龍笛を吹いていたのが、天皇家の正嫡になる望みから琵琶に乗り換え、建武の親政から南北朝の時代(1336年)へと移行する間、北朝の天皇の琵琶に対抗して琵琶を手放さなかったということです。

また、足利尊氏(冒頭の絵)は、鎌倉幕府を倒して建武元年に笙を学び始めています。これは建武二年に後醍醐天皇に対して反乱を起こし、建武三年の室町幕府を開府させるという流れの準備として、武家の頭領として音楽面の用意を早々に始めたということと思われます。尊氏は「陵王荒序」という曲を、笙の一の者(主席奏者)と言われる地下楽人の豊原龍秋から伝授され皆伝となる腕前です。陵王荒序は天下平定の音楽と言われ、後の二度の元寇の際にも敵の調伏のために演奏されるほど、重要な曲です。

これらの後醍醐天皇や足利尊氏のエピソードから、雅楽に演奏者として参加することが当時の天皇や武家の頭領にとって、政治的に大きな意味があったことがわかります。

足利尊氏は室町幕府の初代将軍として様々な儀式の際に笙を吹きますが、二代将軍の長男義詮には笙を継がせず、次男の基氏に笙を継がせました。政治的な力を兄に継がせ、雅楽の権威を弟に継がせることで、兄弟連携による幕府運営を意図したのでしょうか。

三代将軍の義満は、22才から豊原信秋(豊原龍秋の子)について笙を学び始め熟達していきます。義満は、世阿弥のパトロンとなって能を大成させた人物として有名なだけあって、自身も音楽的才能に恵まれていたようで、笙の学びは順調に進み、様々な曲を次々に学び、種々の管弦の会に積極的に出席して経験を積み、陵王荒序も皆伝します。やがて笙の権威者となった義満は、天皇を楽器面で取り込んでいくことになります。

というのは、皇室が南北朝に分裂したとき、北朝の天皇も南朝の天皇も琵琶を学んで、どちらも琵琶によって音楽的血脈の正当性を誇示していたのですが、北朝が一旦南朝に敗北して北朝が途絶えそうになったとき、足利尊氏は北朝の滅亡を防ぐために北朝傍流から後光厳天皇を北朝天皇として擁立しますが、後光厳天皇は琵琶も龍笛も学んでいなかったので天皇の演奏楽器がないということになってしまいました。後光厳天皇は、結局、武家の楽器である笙を学びはじめました。自分の楽器がなくて雅楽に参加できず天皇の面目がつぶれるよりは、笙を学んで武家との結びつきを強めることに利益があったのでしょう。後光厳天皇は笙によって陵王荒序も皆伝となりますが、笙の実力者でもあった三代将軍足利義満は、天皇を音楽面ですっかり配下に取り込んでしまいました。天皇としても武家の威を借りて笙を演奏して武家とつながることは結局は天皇の力を強固にすることに役立ちました。こうして後光厳天皇以後、後円融天皇、後小松天皇と、天皇の楽器は琵琶ではなく笙に入れ替わることになり、やがて北朝に合流する形で南北朝の分裂が終了すると、笙は天皇家の楽器として確立します。これが天皇の琵琶の時代の終了と笙の時代のはじまりの顛末です。

天皇の政治権力にとって、こんなにも楽器演奏が重要だったというのは、現在一般にあまり知られていませんが、日本にはこのような音楽政治というものが長らくあったのでした。

さて下の動画が雅楽の「陵王荒序」です。足利尊氏、義満が笙で演奏し、また元寇のときにもこれを演奏して外的に立ち向かったという伝説の曲。現代に伝承は途絶えていたのを復刻を試みた演奏だそうです。

参考・足利義満と笙 坂本麻美子 (日本の音の文化 第一書房 より)

 

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