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後白河法皇の人生 「今様狂い」で「日本一の大天狗」と呼ばれた人

今様狂いと言われた後白河法皇がどのくらい今様にハマったかについて、法皇自ら口伝に記したことの概要は、次のような内容です。

十代のころから今様を愛唱して途切れることはなかった。(白拍子、傀儡女、遊女など今様を歌うものを呼んで習い、)四季折々いつでも、昼は暮れるまで、夜は終夜、夜が明けて日が高くなるのも気付かず歌い、今様の歌声が途切れることは片時もなく日月を過ごした。人を多く集めて舞い管弦を奏で今様を歌う時もあった。四、五人あるいは七、八人の男女で今様だけ歌うこともあれば、自分ひとりで歌い尽くすこともあった。歌い過ぎて声を潰してしまったことは三度あり、喉が腫れて水もろくに通らないほどだったがそれでもなんとかして歌い出した。このように歌って60の春秋を過ごした。上達部、殿上人はもちろん、京の男女、あちこちのはしたの者、雑仕、江口神崎の遊女、国々のくぐつ、上手はもとより、今様をうたうと噂を伝え聞いた物なら、一緒に歌わなかったものは少ないはずだ。

噂に聞いた今様を歌う者はほぼ全員一緒に歌ったことがあるというのは半端じゃありません。天皇、上皇、法皇になるような人が、遊女などの最下層民たちを次々呼んで歌い練習したというのは、やはりちょっと普通ではありません。側近が、「和漢の間、比類少きの暗主」と言ったというのも無理のないことでしょう。この激動の時代に、遊女たちと歌い遊ぶことにのめり込むあるじを見たら、普通誰でも嘆きます。

法皇はあるとき究極の今様の師を見つけました。乙前という名の老女で、元はおそらく渡りの遊女であろうと言われています。法皇はこの乙前を今様の名人中の名人と見定めて師と仰ぎ、親子も及ばないほどの師弟関係を築きます。乙前が亡くなる前には、乙前の寝所に駆け付けて乙前をよろこばせるために今様を歌い、亡くなった後にはひたすら経を読んで極楽往生を祈り、一年後の命日には習った今様を明け方まで悉く歌い通して後世の安楽を祈ったということです。

また法皇は仏教音楽の声明も並でない熱意で学び瓦坂法印家寛という人の弟子となったことが知られています。瓦坂というところからして、この人も当時の河原者や坂の者などと言われた最下層賎民の一人であったかもしれません。

法皇は、神楽、催馬楽、風俗(ふぞく)、沙羅林(さらりん)、田歌など、歌うものはなんでも深い関心を寄せたようです。

後白河法皇の歌に注ぐエネルギーは尋常ではありません。世は平家と源氏が争う乱世で、宮中も大混乱。いのちの危険をいつもはらみ、国がどうひっくり返るかわからない時代です。天皇・上皇ならまつりごとで手一杯のはずです。なのにこの歌への情熱とまつりごとが両立したのはなぜなのか。

その謎をとく鍵は、法皇が歌を学ぶためにまじわり続けた人々にあったのではないかと私は推測します。白拍子、傀儡女、遊女たち、それから渡り巫女や、放浪の法師たち、田歌を都にもたらす逃亡農民、祭礼を渡り歩く芸能者たち。

これらの庶民芸能者たちは、諸国を移動することを日常とし、都の文化を地方に運び、地方の話を都に持ち帰っていました。この時代最大の情報伝達者でメディアであったのが彼らでした。宮中でこれらの庶民芸能者と日常的に交わり最新情報を親しく聞くことができたのは後白河法皇ただ一人だったのではないでしょうか。しかも法皇は上から目線で問いただすのではありません。最下層の庶民にすぎない者を、天皇・上皇・法皇ともあろう人が師として仰ぎ、あるいは友のように迎えてくれるのですから、宮中に招かれた芸能者たちは、地方の情報や都の様々な動きを惜しまずに話してくれたのではないでしょうか。遊女などは、警戒心を解いた侍たちからとんでもない重要情報を聞いていたりすることもあったでしょう。

乱世の情報を誰よりも多く、誰よりも早く、誰よりも多面的に把握していた人、それが後白河法皇であったとすると、この乱世を乗り切る政治ができたのは、この人をおいてほかにいなかったと言えるかもしれません。源頼朝が法皇のことを「日本一の大天狗」と呼んだのも、まさに法皇の情報操作術にあきれて放った言葉でした。法皇はきっと頼朝と義経の関係や軍備の状況などを芸能者たちから事細かに聞いて把握していたのでしょう。後白河法皇ただひとりが人工衛星を持っていて上から見わたしているかのような情報優位性で、それはまさに木の上から見下ろしている大天狗の視点です。

このように、歌にのめりこむ「今様狂い」と、情報の天才「日本一の大天狗」は、ちゃんと太い糸で結びついていたのだと思います。