後白河法皇(天皇、上皇、法皇などの呼び方がありますが、法皇になる以前の若い頃も含めて法皇の呼び名で書かせていただきます)の渾身の力作「梁塵秘抄」。そのタイトルからも法皇の自信と熱意のほどがうかがえます。
梁塵とは建物の梁(はり)の上にうっすらとたまる塵(ちり)のこと。秘抄とは秘伝を伝える本ということ。
中國古代に美しい声の持ち主がいて、その声を聴くものは感動で涙が押さえられず、その声は梁の上の塵を動かすほど美しかった、しかも動いた塵が三日間梁をめぐるほどだったという故事からきています。法皇はそれほど美しく今様を歌う秘伝を書き記したというわけです。
歌が塵を動かすとはどういうことかと現代人は思いますが、音は空気の粒子の振動ですから、その振動が微細粒子である塵に伝播するという発想は、案外科学的と言えるかもれません。それが三日間おさまらないというのは、音の減衰率が低く共鳴度が高い優れた楽器のようであり、これもまあわかる気がします。
後白河法皇は、白拍子、傀儡女、遊女などから今様の歌い方を学んで修練を積み、自ら工夫を重ねた結果、梁の上の塵を動かすほどに繊細かつ美しくかつパワフルな歌い方の奥義をつかんだと自覚したようです。そしてその自覚はある悲しみを生むことになりました。梁塵秘抄口伝巻十でこのように書いています。
「詩を作り和歌を読み書を書く人たちは、それを書き留めれば末の世までも朽ちることなく伝えることができる。しかし声わざの悲しいことは、私が死んでしまえば、この世にとどまる事なく消えてしまうことだ」
「年来好んで習い覚えたことを誰にでも伝え、私の流儀なども後の人に語ってほしい」
「しかしこのわざを継いでくれる弟子がないことが口惜しい。…殿上人下郎に至るまで、ともに歌う者たちは多いが、皆ただの道楽で、私と同じ心で一心に学ぼうとするものは一人もない」
長年の研鑽でつかんだ歌い方の奥義が法皇の死とともに消えてしまう無念さが、歌い方の秘伝を書き置こうという熱意となって梁塵秘抄という本に結実したわけです。
音楽をどのように伝え残すかというのは西洋音楽でも長年にわたる重大問題で、梁塵秘抄が書かれた12世紀頃にはネウマ譜によって音の高さを書く工夫は整ってきていましたが、音の長さの表現にはまだたどり着いていませんでした。
梁塵秘抄の口伝がわずかしか残っていない現状では、法皇が音をどんな工夫で書き記したのか詳細はわかりませんが、仮に全巻が残っていたとして、音の表現の限界は大きかったでしょう。残念ながら今様の歌い方の秘伝は現代までは伝わりませんでした。今様の歌い方を探求している方は現代にもいらっしゃいますが、タイムマシンでもない限り答え合わせができないのはやはり口惜しい感じがいたします。
それでもやはり当時の歌詞がたくさん残ったという梁塵秘抄の価値は、その口惜しさを補ってあまりある喜びを現代にもたらしてくれました。
冒頭の写真は永観堂、今様の塔