海を渡った小型ギターたち

天正遣欧使節団の少年たちが弾いた楽器とは

伊藤マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンらによる天正遣欧使節団は、1582年に長崎を出発し、インド、ポルトガル、スペイン、イタリア等を回って1590年に帰国すると、翌1591年に関白秀吉の前で西洋楽器の演奏と歌を披露したそうです。少年たちは、イタリアとポルトガルでそれらを十分に学んでいたので、大変立派な態度で品よく軽やかに演奏したと、ルイス・フロイスの記述にあります。

そのときに演奏した楽器が何かというと、「クラヴォ、アルパ、ラウデ、ラヴェキーニャ」の四つです。

クラヴォとは、クラヴィチェンバロ、チェンバロ、ハープシコードと同じく、箱型の撥弦鍵盤楽器のようです。そしてアルパはハープの仲間、ラウデはリュートのことで、ラヴェキーニャはヴァイオリン的な擦弦弓奏楽器のようです。ちなみにラヴェキーニャの動画があったのでのせておきます。こんな音です↓。

関白は、これらの音楽を 非常に注意深く、かつ 珍しそうに聞き、同じ楽器で 三度、演奏し 歌うことを命じました。そして楽器を一つずつ 自らの手にとって、少年たちにいろいろと質問し、さらにその他のヴィオラ・デ・アルコとレアレージョ(携帯風琴)を弾奏するように命じ、それらのすべてをきわめて珍しそうに観察し、彼らに種々話しかけ、「汝らが、日本人であることを大変うれしく思う」 と述べたそうです。

ここに出てくるヴィオラ・デ・アルコは、足の間に立てて弾く擦弦弓奏楽器で、ヴィオラ・ダ・ガンバの祖先となる楽器です。レアレージョとは、手風琴ということですから、小型のアコーディオンのようなものでしょうか。

以上の経緯はポルトガルの司祭ルイス・フロイスの日本史に記載があります。

これらの経緯を聞いて私が思ったことの第一は、「ふーむ、ギター型の楽器が出てこないなあ」ということなのでした。私の仕事柄、どうしてもこういう目線になります。

少年たちがポルトガルやスペインを中心に回ってその間に楽器を深く学んだのなら、ルネサンスギターやヴィウエラが入っていてもよさそうなもので…まあルネサンスギターは庶民的な楽器だったので貴公子たちの学ぶ対象に入ってないのは頷けるとしても、ヴィウエラが入っていてもいいのに…なんて思うのです。

ちなみにこちらの動画↓は秀吉が聞いた可能性が高い曲として紹介されることが多い、ジョスカン・デプレの「千々の悲しみ」ですが、ヴィウエラを伴奏に使用していい雰囲気を醸しています。しかし、使節団の少年たちが使用した撥弦楽器はビィウエラじゃなくてリュートなのでした。

どうしてそこが気になるかというと、当時のイベリア半島では、イスラム王朝を排除するレコンキスタの後、アラブ的な風習が嫌悪され、アラブに起源があるリュートもイベリア半島では異端的な影を帯びて、ヴィウエラなどのギター型楽器に中心が移行していった時代だからです。そういう時代背景の真っただ中に、使節団の少年たちがリュートを手にしてスペインやポルトガルを巡回する光景が、ちょっと奇異な感じもするのです。

しかし、使節団を企画したイエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父がイタリアの名門貴族の出身で、しかもイエズス会の中の二大勢力ポルトガルとスペインの強すぎる力の弊害を緩和するためにイタリア人の彼が巡察師に抜擢された経緯があるということなので、使節団の撥弦楽器にヴィウエラでなくリュートが選ばれていることも、そんな政治的背景と無関係ではないのかもしれません。

ところで、このアレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父は、日本国内のセミナリヨで日本人司祭を養成するために力を入れ、その中に音楽教育もかなり大きな位置を占めていたようなので、使節団の少年たちは、使節団の旅に出る前から、それなりの楽器の経験があったものと思われます。

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