イベリア半島からの楽器の拡散と変遷を見るうえで、注目すべき記録があります。コロンブスの第二次アメリカ遠征後、第三次遠征前に、スペインのカトリック両王は、クリストファーコロンブスに音楽と楽器について次のような指示をしています。
1496年10月 楽器と音楽は、そこにいなければならない人々の娯楽のために行かなければならない
1497年6月15日 良い政府とインド(アメリカのこと)に残った人々及び再入植して居住する人々の維持のため、そこにいる人々の娯楽のためのいくつかの楽器と音楽も行かなければならない
上のふたつの指示は、内容が重複しているので、もしかしたら同じ史実の記録だったりするのかもしれません。スペインセビリアの公文書館に源資料があるそうです。
この指示に基づき、プサルテリー、ビウエラ、ハープ、ルネサンスギター等が運ばれたということです。
具体的にどこに運ばれたかは明示されてないのですが、第二次航海の時点ではまだアメリカ本土は未発見で、キューバ島とエスパニョーラ島が主要発見地点でした。エスパニョーラ島のイサベラの町の建設が殺伐とした経過でうまくいかず、エスパニョーラ島サント・ドミンゴに町を移転させたのが第二次航海終了時の段階ですので、サント・ドミンゴにこれらの楽器を運んだ可能性は高いと思います。
それからもうひとつ、セビリアの公文書館には、1529年、セビリアに住んでいたシエナの商人がベネズエラのクバグア島に15のビウエラを送ったという記録があります。クバグア島は真珠があるということで植民が進んでいたようです。
こういうわけで、新大陸発見後のかなり早い段階から、スペインの人々が移り住むところに楽器が運ばれるという流れがあったことがわかります。スペイン人にとっては、楽器と音楽があるということは、生活の必需的な要素だったのかもしれません。こういう文化背景があるので、中南米には様々な古い楽器が今も生きて残っているのでしょう。
最後に確かにアメリカ大陸にギターやハープが渡ったんだなという動画をひとつ。ブラジルのリオデジャネイロなのでポルトガル圏なんですが、中南米大陸全体の音楽動向として見ることもできるのではないでしょうか。
参考資料
・大航海時代 ボイス・ペンローズ
・ベネズエラのクアトロに関する次のスペイン語の解説文に、ビウエラとルネサンスギターに関する情報があった
https://www.museodelcuatrovenezolano.com/guitrevih
この画像のスペイン語の翻訳☟
クアトロの歴史的投影をすべて理解するには、1497 年にカトリック君主がクリストファー・コロンブスに与えた明確な命令に従っていた 15 世紀末から 16 世紀初頭まで遡る必要がある。征服者たちはいくつかの楽器を導入しなければならなかったが、その中にはプサルテリオ、ビウエラ、ハープ、4対の弦を持つルネッサンスギターなどのいくつかの弦楽器や、いくつかの突然変異を経てベネズエラのクアトロが誕生する命令が含まれていた。また…そこに来る人々の娯楽のための楽器や音楽もあります。」 (インド諸島に残った人々と再びそこに定住し居住しようとしている人々の善政と維持のために、カトリック君主が D. クリストファー・コロンブス提督に与えた指示。1497年6月15日)。当時ギターと呼ばれ、混乱を避けるためにルネサンスギターと呼ぶこの楽器は、以下のことからわかるように、当時、非の打ちどころのない名声を享受していたわけではありません。
当時のコメントは、必ずしも非常に装飾的な環境で表示されるわけではありません。このようにして、たとえば、1459 年にリスボンコルテスの検察当局が、セレナーデが予想外であると同時に有害な影響をもたらした特定のギタリストの愚行を止めるために、非常に具体的な措置を講じなければならなかったことがわかります。 1本のギターを残して、3、4本を残して演奏したり歌ったりしている間、他の人たちは家に侵入して略奪します。悪女や娘、あるいは男の使用人たちは、ギターの演奏を聞くとドアを開けてギタリストと一緒に寝ます。彼らが去るときは、何かを取るのをやめないでください。」このことを考慮して、検察側は「外出禁止時間のあった場所では夜9時以降、その他の場所では日の出後まで、非常に混雑したパーティーやパーティーが行われている市、町、または公共の場所でギターを持って発見されたギタリストは、結婚式はたいまつや照明器具を使って行われなかったので、彼は刑務所に行き、ギター、武器、着ていた衣服も失うことになりました。