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木工談義18 創作中は性格がわるくなるという話

昨日、アート系の木工家の人から、

「自分は創作中は性格がわるくなります。人が入ってくると睨みつけたりもします」

という話を聞きました。普段とてもフレンドリーで優しい人なので、ギャップがすごく大きい話でした。

なんでも、あるイメージに集中して木を彫っているときに、「ここの形がお尻みたいですね」と横から言われたりすると、それまで作ってきたイメージが崩壊して、以後お尻にしか見えなくなってしまうんだそうです。それを言った人は何のわるぎもない雑談をしただけですが、アーティストとして追いかけてきた美のイメージには致命的な一撃になってしまって、何日もかけた創作が無駄になってしまう危険があるというわけですね。そういう事情を聞くと、入ってきた人をにらみつけてしまうというのも、なるほどとうなづけます。

私はこの話を聞いて老子の逸話を思い出しました。是非にという頼みを受け入れて、老子はある人が散歩についてくるのを許したのだそうですが、その人は途中一度だけ、なんてきれいな太陽だろう、というようなことを言ったということです。散歩から帰ってきたとき、老子は「あの人はしゃべりすぎだ」ともらしたという話です。

太陽がきれいだと、なんのわるぎもなく言った一言は、老子の前に広がる美しさに対して、無用な一撃だったのかもしれません。さきほどの木工家の話とちょっと似ています。

話を転じて私のウクレレ作りの場合はどうかというと、ウクレレ作りをしていて私の性格がわるくなるということはたぶんないと思います。ウクレレ作りは、イメージを追いかけるというより、順繰りに工程を追いかけている感じなので、その工程をやっている間はほかのことを考えていません。その考えてないところに、次はこうしようというイメージが具体的にぽんと湧いてくるという形で創作をしています。ですから、湧いてくるイメージ、降ってくるイメージを受け取るだけという創作形態なので、壊れるイメージが最初からない感じがします。人が来ると、その人の言葉を起点として新たなイメージが湧いて次の作品につながったりもしますから、その人も降ってくるイメージのひとつだったりもします。

そんなわけですので、工程を追うという創作は、イメージを追うというアーティストの創作より、少し気楽なのかもしれせん。