フラメンコと能が、足さばきが動と静の対極表現なのに、共通する世界観を含んでいる気がする、ということを昨日書いたのですが、しかしなぜその表現方法がかくも異なるのか。
友人の彫刻家がしばらく外国で暮らしながら作品を作っていたときのことを話してくれたのですが、「その国の日差しはあまりにも強すぎて、彫刻の微妙なニュアンスが光でつぶれて全くわからない。その結果、持ち帰った作品を日本の光の下で見てみると、とても荒い作品になっていて驚いた」と言っていたの思い出します。
その国の強い光の下では、くっきりと強い陰影以外意味を持たなくなってしまうのでしょう。逆に日本の光の下では、淡い静かな陰影こそが意味を持って前面に出てくる。
そういう風土に根ざして、音楽の表現や、民族性全体にも、動と静の世界が東の端と西の端に生まれているのかもしれません。
強い光のアンダルシアのフラメンコ ↓