あれこれいろいろ

王朝文化と庶民文化 源氏物語・枕草子と新猿楽記

昨日の続きですが、新猿楽記の出だしで様々な芸人が列挙されたあと、個々の有名芸人批評が入り、次のように猿楽を見て帰る人々の様子が描かれます。

… こうしたわけで、猿楽興行の後は、全くたいへんなものだ。京中の道俗男女、貴賤上下を問わず、熱狂のあまりひいきの猿楽者にかずけもの・禄物など雨の降るように投げ与え、雲ののように積み重ねる。だから100人のうち9人までが裸になって帰り、人々のうちには熱狂のあまり犬のように四つん這いになって去るものもいるしまつ。

この庶民の芸能と暮らしを記した「新猿楽記」は、紫式部の「源氏物語」や清少納言の「枕草子」とほぼ同時代の文学です。

みやびともののあわれの王朝的美意識の世界の外側に広がっていた喜劇的な道化空間。その祭礼には奇怪な情熱が渦巻き、性的な傾斜も帯びながら、前衛的かつ原始的な歌舞劇が繰り広げられていました。このような狂騒的都市空間の担い手は、新興都市住民と、とりわけ都市周辺に移動して住み着いた底辺民衆(賎民たち)でした。

平安貴族の王朝文化は爛熟期を迎えると同時に急速に衰退期に入り、底辺庶民は悲惨と困窮の裏側で次第に民度をあげ創造性と活力に持ちつつありました。これはまさに古代から中世へと時代が変わる平安時代末期の様相でした。

貴族的な王朝美意識世界と庶民的な都市狂騒世界の二つが並立し、その間に力の移動が起きつつあったことを考えると、教科書が源氏物語と枕草子の王朝文学だけを取り上げるのは歴史観に偏りがあるように思います。新猿楽記に満ちる庶民・賎民のエネルギーがその後の社会に及ぼした影響は大きく、良きにつけ悪しきにつけ現代に多くの痕跡を残しています。

平安貴族の数はたったの150人から200人程度で、当時の日本の人口の0.003%ほど。貴族に仕える周辺者も平安貴族文化の担い手と見て、仮に100倍の15000人から20000人が平安貴族文化を創っていたとしても、人口比にして未だわずか0.3%。

残りの99.7%を視界に入れて見直すと、歴史は俄然新たな色彩を帯び、当時の活気に満ちた音楽が聞こえてくるような気がします。

参考文献・新猿楽記 川口久雄訳注 東洋文庫

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