次の文は楽器の音と季節の対照についての更科日記の一節。
原文 春秋のことなど言ひて時に従ひ見ることには春霞おもしろく空ものどかに霞み月のおもてもいと明かうもあらず遠う流るるやうに見えたるに琵琶の風香調ゆるるかに弾き鳴らしたるいといみじく聞こゆるにまた秋になりて月いみじう明かきに空は霧りわたりたれど手に取るばかりさやかに澄みわたりたるに風の音虫の声取り集めたる心地するに箏の琴かき鳴らされたる横笛の吹き澄まされたるは何ぞの春とおぼゆかし。またさかと思へば冬の夜の空さへ冴えわたりいみじきに雪の降り積り光りあひたるに篳篥のわななき出でたるは春秋もみな忘れぬかしと言ひ続けて
訳 源資通が春秋のことなどを話して季節の移ろいを見ることには、春霞もおもしろく空ものどかに霞み月のおもてもそれほど明るくもなく遠く流れるように見えている時に、琵琶の風香調をゆるやかに鳴らしているのはまことにすばらしく聞こえるが、また秋になって月がとても明るい時に空は霧が立ちこめているけれども月は手に取るばかりにさやかに澄み渡る中に風の音や虫の声など秋の風情を集めたような中に箏の琴が掻き鳴らされていたり横笛が吹き澄まされている秋の風情は春のどこがよかったのだろうと感じられるほどだよ。またそうかと思うと、冬の夜の空まで冴えわたって冷える中に、雪が降り積もって輝き合っている夜に篳篥〔ひちりき〕がふるえるように音を出しているのは、春も秋も忘れてしまうほどに素晴らしいよと言い続けて…
春の夜は琵琶、秋の夜は筝と笛、冬の夜は篳篥 というこの感性。平安の夜に飛んで行って、なるほどこの感じかあ、と本物の味わいに共感してみたいものです。
それにしても楽器を聞くのにふさわしいのはなぜか全部夜の設定。明るいうちは和歌や蹴鞠や舞などに忙しく、夜のとばりが下りて視覚の世界が閉じてくると聴覚の世界が開けてくるのかもしれません。
夏の楽器だけ出てこないのも気になるところ。京の夏は暑すぎて楽器どころではなかったのでしょうか。
現代の夏の音楽を書いて更級日記にこっそり加えてみると、
「夏休みの蝉の声いみじきにエアコンの効いた部屋を飛び出してビーチに波乗りしてコーラなど飲みてのど越しさやかに澄み渡りたるにエレキなどかき鳴らしたる…」
とこんな感じ?