アイヌの紛争解決方法には、歌うように議論を戦わすチャランケのほかに、歌い踊りつつ組打ちの力勝負で決着を付ける方法もありました。
単に力の強い方が勝つという「力=正義」の発想ではなく、歌と踊りで作られた神聖な空間で組打ち勝負をすることが公正を導くという発想のようです。
その手順が、座興的に遊戯化したアイヌの歌と踊りとして残った例があり、それは次のようなものです。
干し魚の束を盗んだ盗まないということで、AとBが二手に分かれて互いに手を叩き、足を踏み鳴らしながら、順に次のように歌います。
A 〽 干し魚の束 たくさんの束 私の持ってたもの 誰かが取った
B 少ししおれながら
〽 知らないよ知らないよ 知らないよ知らないよ
A 〽 本当かしら たまげた フンー フン 本当かしら たまげた フンー フン
A・B 腕をまくりあげ、互いに拳を前で振りながら
〽 そら降りたよ 本当に天降ったあそこに そら降りたよ 本当に天降ったあそこに
Aが進むとBが退き、Bが進むとAが押し返されというやりとり、そして組打ちが始まる。
〽 フエ ラン ナ 〽 ウト ラント (繰り返し)
身体をぶつけ合い、組打ちを続け、多く転ばされた方が負けとなり、負けた方は宝ものを差し出して謝罪する。
出典 アイヌの神話 更科源蔵著
このやりとりに既視感があって、どこで見たんだろうと考えると、相撲でした。
対立構造の儀式的なやりとりがあり、そこに神聖な空間ができたタイミングでやおら組み合いの力勝負が始まり、地面に転んだ方が負けというところは、ほぼ相撲と同じです。〽 フエ ラン ナ 〽 ウト ランナ の組打ち中の繰り返しは、「残った残った ハッケヨーイ残った」という行司の掛け声に匹敵するのかも。
相撲のような闘争を神に奉納するのはなぜだろうと思っていたのですが、神が喜ぶというより、神の前で争いごとを決着してもらうという必要から始まったと考えると、なるほどとうなづけます。神社に土俵があることが多いのも、古代には神社が紛争を神前で解決する場所であったからなのでしょうか。
もうひとつ、はないちもんめにも似ているなあとも思いました。向き合って相手への要求を歌で主張しながら、進んで下がり、下がって進むを繰り返し、最後に決着を付ける勝負がある(こちらは力勝負でなくじゃんけん勝負)という構造が似ています。
はないちもんめは、人買いが女の子を買いに来て交渉し、買う子を決めて、「買ってうれしい」と歌う残酷な歌なのだという解説も数多く見られるのですが、そうであればこそ、神の意思も加わって神聖にこの子が選ばれたのだという形式を守ることに、子を売り渡す親はせめてもの慰めを求めた可能性もありそうです。
歌と踊りと神の降臨が結びつき、それと問題解決が結びつくという同じ文化の流れが、アイヌばかりでなく、日本の文化の地下深くにもありそうです。