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三線の起源考

沖縄の三線の起源は一般に、1392年明の洪武帝の命により福建省(当時閩と言われた)から渡来した閩人(ビンジン)三十六姓が三線の原型となる三絃(サンスェン)を持ち込んだのが始めと言われています。閩人(ビンジン)三十六姓は、琉球の人材育成や国際交流事務を担う趣旨で学者や航海士などの職能集団が派遣されて琉球に帰化したものらしく、那覇市久米村に定住したことから、久米三十六姓とも呼ばれました。

中国の三絃(サンスェン)は、一般的に南方のものは小さく95cm程度で「小三弦」、 北方のものは大きく120cm程度で「大三弦」と呼ばれ、元(1271年~1368年)の時代に現在の形になったと言われています。下の写真は大三弦です。

以上が三線の起源の一般的な説明ですが、昨日書いたように、沖縄本島から南に下った八重山諸島に雲南省から文化と物が流入した形跡があり、雲南省にも三弦(南方系の小三弦か)が普及していたことからすると、雲南省から八重山への三弦の流入が三線の起源のひとつと考える余地もありそうです。(福建省の閩人三十六姓説を否定する趣旨ではなく、様々な流入経路の可能性があるだろうと思います)

雲南省には、738年から902年までチベットビルマ語族の南詔国があり、937年から1253年までチベット系白族(ぺー族)により建国された大理国があり、1253年から1390年までモンゴル帝国に降伏して建てられた雲南王国(後に梁王国)がありましたが、南詔国時代には唐と激しく戦い、内部クーデターによる大量殺りくなどもあり、大理国時代末にはモンゴル帝国の雲南・大理遠征(1253年)を受けて戦いが繰り広げられましたので、雲南省から難民が生まれて海路八重山に流れて来て、三弦も一緒に渡ってきたという推理はあり得るように思います。

冒頭の写真は、雲南省大理市

 

 

 

 

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