伝統音楽や民族音楽には、口伝のものが多くあります。文字や記号に残さず、口と耳と体験で伝え続けて代々受け継いできた音楽です。ハワイのフラ、ユダヤの聖書の朗詠、アイヌのユカラ、アメリカ先住民の音楽など、世界中にその例はたくさんあります。
この口伝音楽はどのくらい正確に伝わり続けていくものなのか、口伝は記録に残さないため検証できないジレンマがあるわけですが、ユダヤ音楽でそれが検証できたというのが今日のお話です。
ユダヤの伝統では、「聖書(旧約聖書)はもっぱら旋律的に朗唱され、学びとらなければならない」とするタルムードの原則が徹底して守られ、一切記録化されることなく、古代から現代まで口伝が連綿と守られてきました。ところが、この原則に反して、12世紀にこれをネウマ譜に残してしまった人物がいるのです。ノルマン出身のキリスト教からユダヤ教への改宗者で、オバディアという人物です。オバディアの自筆の伝記に、「改宗の日は1102年」「改宗のころ、中近東に旅行して、バグダードのユダヤ人コミュニティで生活し、ヘブライ語の研究を始める」と記載があり、記録の年代も場所も記録した動機もわかるという貴重な記録です。オバディアの手書きのネウマ譜はふたつ現在まで残っており、それぞれ「アドラーコレクション」と「ケンブリッジコレクション」と呼ばれています。
このネウマ譜と現代の聖書朗唱の比較検討が行われた結果、12世紀と20世紀の旋法が同じであることが確認されました(イスラエル・アドラーの論文)。なんと800年間も口伝で同じ朗唱が伝わっていたのですね。800年間伝わってきたということは、それ以前の数百年も伝わってきたのだろうと推測もできるわけで、1000年を超える口伝の伝達能力が確認されたわけです。
記録化の伝達能力にも劣らない、もしかしたら記録化を超える伝達能力かもしれません。口伝の伝統が世界にたくさんあるのには、きっと深い理由があるのですね。