鎖国下の日本では、長崎の出島にオランダ商館が設置され、1641年から1859年にかけて対オランダ貿易が行われていました。オランダ東インド会社の商船二隻が毎年一回インドネシアのバタヴィアから長崎に来航し四か月ほど滞在します。それ以外の期間は、商館長(カピタン)、次席商館長(ヘトル)、倉庫長、書記役(1人-3人)、商館医、商館長の補助員数人、調理師、大工、召使(マレー人)など15人前後が常駐していました。
この出島でのオランダ人の暮らしの中には、ちゃんと音楽もありました。音楽を演奏するのはマレー人の召使いが主として担当していたようです。商館日記には、音楽を演奏する者の記述として、「召使い」「楽士」「音楽隊」等と書いてあるだけで、演奏者の詳細に触れていないのですが、当時のインドネシアは西洋音楽の影響を強く受けて隆盛していたので、それなりの音楽的素養のある者を召使いとして雇用して連れてきていたものと推測されます。
オランダ商館で音楽が演奏される機会は、商館日記によれば、1820年以降では、ワーテルロー戦勝記念日、新年(西暦の新年)の祝祭、オランダ国王の誕生日と言った祝祭の日が中心。祝祭には、日本人関係者も多く招かれ、日本の芸者も呼ばれることがあり、マレー人が演奏する西洋音楽と芸者が演奏する日本音楽と、それに盛大な西洋料理で、祝宴が夜遅くまで賑やかに開催されました。
そこで気になるのが、どんな西洋音楽が江戸時代の出島で演奏されたのかということです。いくつかのレパートリーがあったと思われますが、必ず最初に登場するのが国歌「ウイルヘルムス」です。この曲が公式にオランダの国歌になるのは1932年でかなり後なのですが、この歌は16世紀からあるオランニェ家賛歌で、ハプスブルク家と戦ったオランダ市民に長らく愛されてきた歌でした。1817年に着任した商館長のプロムホフはこの歌が大変お気に入りだったようで、この歌を斉唱したことを商館日記にわざわざ書き記す際には「大好きな国歌ウイルヘルムス」と形容詞付きで書いています。それでは、そのオランダ国歌ウイルヘルムスをどうぞ。
この曲が、1800年代の出島に頻繁に歌われ、それをきっと日本人が聴く機会も少なからずあったでしょう。当時の日本人の耳にはどのように聞こえていたのでしょうか。オランダのカピタンたちは、大好きなウイルヘルムスを誇らしげに歌ったのでしょうから、国というものに対する西洋人の高揚感はある程度伝わったかもしれません。
最後に、祝宴に音楽がどのように使われていたのか、オランダ国王の誕生日のことを書いた部分の商館日記をひとつ抜粋します。祝宴中、最初から最後まで音楽があったことがわかります。
本日は国王陛下の誕生日を祝った。それは払暁とともに大好きな国歌ウイルヘルムスの斉唱のうちに旗の掲揚とともに始まった。十二時に職員と船の乗員たちの、その後に通詞たちの祝福を受けた。これらの人々は軽食でもたなされた。その後めいめいの家に帰って少し休んだ。五時には音楽で祭りの始まりが知らされ、六時に人々はテーブルについた。その場では多くの適切な理由を述べた乾杯が繰り返され、暗くなる頃にはイルミネーションが船上と同じく出島にも付けられた。(中略) 食事のあとで出島巡りが行われ、引き続きその後の晩と夜の大部分を音楽に合わせて歌いかつ踊って、オランダ人も日本人も、非常に遅くなって会を閉じた。(後略)
また、別のワーテルロー戦勝記念日の祝宴に関する商館日記の記述には、やはり国歌ウイルヘルムスとともに旗が掲げられ、祝宴の始まりが音楽で告げられ、食事中も音楽があり、祝宴の終わりもオランダと日本の音楽と踊りで締めくくられ、日本人の出迎えのときも送り出しのときも玄関で音楽とともに送迎がされたことが記載されています。

こんな様子で、出島に音楽は頻繁に鳴り響いていたわけですが、出島の対岸を歩く日本の庶民の耳にもその響きは届いたでしょうか。異世界の音楽が風にのって聞こえてくるなんて、ちょっと夢のような感じがします。
それにしても、その演奏を全部担ったマレー人の召使いというのは、大したものだなあとあらためて思います。
参考 出島の音楽風景 竹内有一 国立音楽大学研究紀要34
ウイキペディア 出島 など