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春駒その7 ツミとケガレの循環型社会とその音楽

祝福芸の春駒を担ったのが、常にケガレを背負う賎民であったことについての続きですが、

歴史的に、宗教的あるいは世俗的な権力体制が固定化すると、それはツミもケガレもないものとして聖化され、ツミとケガレは他者に押し付けられるという構造が生まれることが多いようです。賎民、異民族、有色人種、女性などが、ツミがあるorケガレているor卑しいor劣っているというレッテルを貼られて、権力者の聖性を維持するためにツミとケガレのはけ口となり、そのうち社会の普通の人々もツミとケガレを押し付けることに慣れてしまうようです。

しかしツミやケガレは、自然の生命力の中から生まれるひとつの現象で、自然を成立させる循環そのものです。排泄物や動植物の腐敗再生の過程を考えれば、それは不可欠のエネルギー交換過程で、汚物や腐敗物の循環なくしては地球も生命も成り立たないことは容易に想像できます。観念としてのツミケガレについても同列でしょう。

そのように考えると、ツミケガレを押し付けられた賎民が、祝福芸をして各家庭を回ったのは、ツミケガレを祝福の形に再生するというエネルギー交換作用を果たしていたようにも見えてきます。

しかしツミやケガレの処理を人に押し付けて知らぬ顔をしているのでは、循環はおのずと限界を迎え、自然の生命力は失われて、社会は病んでしまいます。

イザナギが黄泉の国まで死んだイザナミを追いかけ、腐敗するイザナミの体を見て逃げ出し、現世と黄泉の間を岩で塞いでしまったという神話のエピソードも、ツミやケガレの循環路を塞いでしまった男性的権力の様相に似ているようでもあります。

排泄物、腐敗物、観念的なツミやケガレを弱い者に押し付けることなく、自律的、循環的に処理するシステムを回復する必要があることは、持続可能性がキーワードになっている現代の様相にも重なります。

地球の限界が見えている今、そろそろ現世と黄泉の間に置かれた岩を取り除いて腐敗再生の循環路を回復し、神話の続きを書き継ぐ時が来ているのでしょうか。時が止まらぬ以上神話は常に現在進行形で紡がれているはずですから。

その新たに書き継ぐ神話には、音楽が重要アイテムとして登場しそうです。春駒のような被差別民が生みだす音楽に、そのヒントがあるように思うのです。

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