あれこれいろいろ

音楽のカタルシス 悲しい音楽が多いわけ

昨日は九州で活躍する古楽演奏家による「嘆きと喜び バロック音楽の始まり」と題する古楽コンサートに行って、楽器を展示させてもらいつつ、じっくり初期バロック音楽を堪能。「嘆きと喜び」という題のとおり、嘆きの歌はこれでもかと嘆き尽くし、喜びの歌は喜びを爆発させ、感情開放のバロック音楽を実感したひとときでした。

今日の話はその嘆きの歌の方なのですが、その嘆きっぷりを紹介するとこんな感じです。すごく長い嘆きをあちこち飛ばしながら抜粋します。

「私を死なせてください…このような浜辺で野蛮な野獣たちの餌食となるのです…哀れな私 まだ裏切られた希望にしがみつくのね…見てくださいどんな邪悪な運命が私を襲ったのか…そしてあの人の偽りを こんな風になるのだ あまりにも愛し あまりにも信じすぎた者は」

ルネサンス時代の音楽もかなりネガティブな歌詞が続々と登場しますし、ロマン派の作曲家マーラーにはその名も「嘆きの歌」という曲もあります。日本にも悲しい歌はたくさんあって、着てはもらえぬセーターを涙こらえて編んでみたり、クリスマスイブにきっと君は来なかったり。

古今東西、悲しみの歌、嘆きの歌、絶望の歌が生まれ続け、その歌声が途切れることがなかった理由は、「カタルシス」という言葉で説明されるようです。

カタルシスの語源は「浄化」「排泄」です。

アリストテレスは、「悲劇が観客の心に怖れ(ポボス)と憐れみ(エレオス)の感情を呼び起こすことで精神を浄化する効果」として演劇における悲劇の効用を説明しています。

精神医学の分野では、フロイトが、カタルシスを代償行為によって得られる満足を指す心理学用語としても用い、ヒステリー治療において催眠療法と「悲惨な話を聞いて泣く行為」を併用し、その除反応を「カタルシス」と呼びました。

というわけで、人類が嘆きの歌を好む理由は、心の浄化のためなのでしょう。排泄すべきものを生みだし続けるのが人間の歴史かもしれません。

小澤征爾氏の言葉にこんなのがありました。

「大事なものとか美しいもの、美しいと言ってもただ見て美しいのではなくて、心に染みわたる美しさとか、心を打たれる美しさというのは、少し悲しみの味がする」

排泄後のすっきり感、なんていうと身もふたもないですが、ドロドロが浄化されてゆく途中から、心にしみわたる一筋の光がさしてくるのは、人間という悲しくも美しい生き物の基本的ありようかもしれません。

 

 

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