春駒の旅芸人が正月にやってくるときの様子がわかる文章があります。
門前の近く、利根郡で生まれ育った作家宮川ひろ氏の小説「春駒のうた」に、生き生きとした描写があります。課題図書にもなり、映画化もされているので知っている方もいるでしょう。
おばあは庭へおりると、ほうきを持ってきて庭さきをはきはじめた。ほうきをあてるたびに、白い煙のようなほこりがたった。
「ほんの二、三日で庭がこんなにかわいて。おてんとうさまはありがたいもんだ」
おばあはそんなひとりごとをいいながら、そうっとほうきをうごかして、ごみだけをあつめた。ついこのあいだまで雪ののこっていた、どろんこの庭だったのに。
「幸子、きょうあたり、いいもんがきそうだで」
おばあは、なぞかけのようにいう。
「何がくるん?」
幸子も庭へ出て、ふるいほうきをふりまわしていた。
「春駒だんべ」
圭治がすかさずにいった。
春駒は、街道の土がかわくのを待って、まい年やってくる。それはたいてい、学校の春休みのおわるころだった。
春駒というのは、あのしし舞いのように、家いえの門に立ってうたう人のことだ。
養蚕でくらしをたてている村である。蚕がじょうぶにそだって、いい繭をつくってくれるように。…春駒のうたには、そんな祈りがこめられている。
うたに合いの手をいれて、クワの木の枝で打ち鳴らす平だいこの音には、ながい冬眠を呼びさますきびしさもあった。
トトトトトトトトトト。トン。
トトトトトトトトトト。トン。
たいこの音がしたような気がした。圭治の顔がひきしまった。たしかめるように耳をすませた。
トトトトトトトトトト。トン。
トトトトトトトトトト。トン。
たしかだ。去年の春駒はまだ病院だったから、二年ぶりにきくたいこの音だ。
「春駒がきたぞー」
街道を上のほうから下のほうへ走っていく、かるい足音がつづく。それはもう、おもい長ぐつの音ではない。
「ほれ、春駒の音じゃねいか。圭治もぞうりをはいて、むかえにいってこい。かあちゃんもいっしょにいってやるで」
まだふとんはとじおわっていないのに、かあちゃんはそわそわと立ちあがった。
春駒の旅芸人の訪れが、まるで春の訪れそのもののように描かれています。それを迎えるときの、うきうきとした喜び。すべてが新鮮になるときがきたような、引き締まる心地よさ。そんな春駒の訪れは、日本の祝福芸の原風景です。
つづく
参考・旅芸人のフォークロア 川元祥一著