博多にわかとコメディア・デラルテが結構似てるかも(顔半分の仮面、即興コメディ劇、庶民言葉、庶民のガス抜き的プロット、楽器も登場する音楽性、等)と昨日書いたので、ルネサンス時代イタリアのコメディア・デラルテと博多にわかがどこかで繋がることはあり得るのか、ということを一応考察🤔。
博多にわかを福岡に導入したのは、黒田官兵衛(黒田如水、黒田孝高、1546年から1604年)だという説が有名なのですが、官兵衛が生きた時代に起きたイタリアとつながる出来事と言えば、なんといっても天正遣欧少年使節団です。
コメディア・デラルテが流行していたイタリアに、使節団の少年たちが訪れて(天正10年から天正18年)、ピサ 、フィレンツェ、シエナ、ローマ、ボローニャ、ヴェネツィア、フェラーラ、ミラノ、ジェノバを歴訪しています。これだけあちこち行っていれば、どこかで少年たちが流行のコメディア・デラルテを見たとしてもおかしくはありません。コメディア・デラルテの巡業は、言葉がわからなくても各国で人気だったそうですから、少年たちも見ていればかなり楽しめたはずです。そして日本に帰国後には、コメディア・デラルテという面白い仮面劇があって大衆が楽しんでいたと報告したかもしれません。
少年たちは帰国後に秀吉に謁見して詳細にヨーロッパでの体験や西洋音楽のことを報告していますが、官兵衛は秀吉の重臣ですから、その報告内容に接した可能性もあるでしょう。また官兵衛は熱心なキリシタン大名でしたから、信仰心の点でも少年たちと近い関係があります。さらに官兵衛が豊前国(福岡県東部および大分県北西部)の国主になってからは九州出身の少年たちと土地的にも近くなりましたし、キリスト教宣教師が加藤清正に捉えられた時に、勘兵衛と使節団の少年の一人原マルチノが、宣教師の解放に向けてそれぞれ動いたということもあり、共通の利害もあったようです。これらのことから考えると、官兵衛と少年たちが直接面談して西洋事情や信仰の話などを交わすようなことがあっても不思議ではないでしょう。
というわけで、遣欧使節団の少年たちを通じて、コメディア・デラルテの様子が官兵衛にもたらされ、城下の人々の慰安を探していた官兵衛によって博多にわかが創始されたという推測もあり得るように思います。官兵衛は、姫路一宮の悪口祭を見て、人の悪口や政治の不満などを無礼講的に語る催しとして博多にわかを創始したと言われているのですが、ヨーロッパにも、庶民の思いを表現するような演劇があると聞いて、コメディア・デラルテの仮面様式も参考にしたという可能性はありそうな話に思えます。
まあ憶測を重ねた小説的な話に過ぎませんが、そんな筋書きの台本で、ルネサンスヨーロッパの楽器と日本の楽器を両方出して音楽劇を作ったら、地球と時代を往来するスケールの大きい面白いものできそうだなあと思ったりもします。