春駒や田遊など予祝芸能の説明としては、
・土地の中にいる神霊を呼び起こすとか、
・土地や家にある穢れを来訪する神人(まれびと≒旅芸人)が持ち去ってくれるとか、
・力に満ちた良い霊能を田に祝い込め邪悪な霊から田を守るとか、
複数の説明があるようです。
説明の際に折口信夫の常世とまれびとの考えや、柳田邦男の祖霊神の考えなどが引用されることも多いようです。
社会的習俗は地域や時代ごとに重層的な意味を持つことが多いので、これらの説明はどれもきっとその通りなのでしょう。ただ、農事の手順や技術を正確に再現して唄い演じる理由はあまり説明されていないように思います。
その点については、「旅芸人のフォークロア」(川元祥一著)には、イギリスの人類学者ジェイムズ・フレイザーの類感呪術の考え方が紹介されいます。類感呪術とは、「期待する結果を前もって模擬的に演じると期待が実現する」という呪術的信仰で、それは世界中にあるのだそうです。この類感呪術の内容を分析すると、類似は類似を生む、あるいは結果はその原因に似るという「類似の法則」と、かつて互いに接触したものは、物理的接触がやんだ後も、なお空間を隔て相互作用を継続するという「感染の法則」として説明されるとのことで、確かにこれらの考え方は、春駒や田遊などの予祝芸能全般にあてはめることができそうです。
さらに前記川元氏は、日本古来の言霊(言魂)の考え方の影響にも言及しています。日本は言霊の幸はう国(言葉の霊力によって幸せがもたらされる国…柿本人麻呂、山上憶良)と昔から言われますが、ウイキペディアによれば、古代日本においては、言と事は同一概念と考えられていて、音声言語は事象に影響し、良い言葉を発すると良いことが起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされていたそうです。春駒において養蚕の理想的な過程を一年のはじめに全部唄うのは、まさに言霊の力によって養蚕の一年の成功を現実化しようとするものに違いなく、言霊の考え方そのものと言ってよいでしょう。
以上が予祝芸能の考え方ですが、農民や旅芸人がこのように分析的に考えていたわけではなく、もっと日常の感覚として、現代人的に言えば、プログラミングで入力したとおりに出力があるくらいの必然感だったのかもしれません。
群馬県川場村門前に春駒の旅芸人が来なかった年に蚕が全滅したとき、門前の青年たちがわざわざ旅芸人を探す旅に出て、見つけた旅芸人が病気でもう来られないとわかって、旅芸人の家族から春駒の芸を泊まり込みで習い覚えることにしたというエピソードも、その気持ちがわかるような気がします。いわば養蚕成功を毎年入力してくれるプログラマーがもう来年から来られないとわかった以上、自分たちでプログラミングをマスターして自分たちで入力するしかないと村の青年たちは決意を固めたという、村のためのプロジェクトのようなものであったかもしれません。そんなプロジェクトの結果、川場村門前の春駒が現在も伝統行事として残っていると想像すると、感慨ひとしおです。そんな春駒プロジェクトストーリーの映画を作ったら、おもしろい脚本ができそうです。
現代の門前では産業としての養蚕はもう行われておらず、伝統行事として春駒が継承されているわけですが、今の村の要請に合う新しい春駒の創出も、予祝としての春駒の伝統を生かすひとつの道かもしれません。川場村の現代の特産は米、リンゴ、ぶどう、ブルーベリーなどらしいので、川場村のキャラクター「かわたん」も出てくるそれらの豊作の春駒を作ったりしても楽しそうです。考えてみれば、日本各地にあるマスコットキャラクターというのものも、その深層をたどれば、どこか日本的呪術の匂いがしてくるような気もします。ちなみに川場村観光ガイドによれば、かわたんは雪ほたかの妖精で、りんご、お米、おいしい水が好物だそうです。
また日本各地の要請を聞き取りして、楽しく面白い予祝芸能を作って回る芸人さんなどが出現するのも楽しそうな気がします。日本は今芸人さんの宝庫ですから、現代的予祝プログラマーの才能を持つ人はいっぱいいそうです。