あれこれいろいろ

フラとは何か

今日書きたいのは「フラとは何だろう?」ということなのですが、フラを明確に定義することがなかなか難しいようで、多様な説明が見られます。どうやら、フラが西洋文明的な文字の世界観に収まらない概念を含んでいること、フラに重層的な意味があるために言葉で限定したとたんに不適切になるということに、説明の難しさの一因がありそうです。

形式面から言えば、メレ(言葉、祈り、チャント) と 体の動き(手、足、顔、目のすべて) を関連させながら、意味をもってリズミカルに展開していくハワイの踊り とでもいうことができるでしょうか。

しかし形式的な説明では足りないので、ナサニエル・エマソン(ハワイ生まれのハワイ研究者)は、フラのことを、「文字にされなかったハワイ文学」と表現しました。これはハワイにはもともと文字がなく文学もないと言われていたことへの反語でもあるわけですが、ハワイには文字によらない文学があり、それがフラだというわけです。

フラの言葉の部分のメレは、内容的に、生と死やあらゆる感情など人生の重要テーマ、自然現象、霊、死後の世界、伝説的な過去などあらゆる方面に及びます。メレの言葉は重層的な意味を含むのが常で、表現者も見聞する者も深い理解に導かれます。メレの種類は多くが失われていますが場面に応じて数十種類にも及び、楽器や演奏もメレに対応します。体の動きは単なるダンスではなく、手、足、顔、目のすべての動きが調和してメレと共に意味を表現します。

このようなフラは、文字文学も口承文学も超えて、言語と身体をひとつにして表現する全体文学のようです。全体的表現で重層的な意味を表現することで、自ずと宗教性や歴史性などの品格が備わる仕組みもありそうです。フラの教育を通して世代間の社会教育と情報の保存継承がされる仕組みにもなっていそうです。ハワイには「ハーラウ」というフラの学校の伝統があり、このような組織的な面もフラの全体性を支えるフラの不可欠な一部と言ってもよいかもしれません。

こう見てくると、フラは文学という言葉でもまだ足りないような気がしてきます。音楽、教育、歴史、情報の保存継承、宗教などのすべての核心が融合して回転していく仕組みに昇華しているようです。

20世紀ハワイを代表するクム・フラ(フラの師匠)の一人であるマイキ・アイウ・レイクは、「フラとはハワイであり、ハワイとはフラだ」と言いました。フラの調和と全体性を表現しようとするとき、それがハワイだ、というのはハワイのハートに繋がる人ならではの言葉のように思います。