京都三大祭りのひとつ葵祭は、平安から鎌倉時代の面影そのままの壮観な祭儀行列が見られますが、その先頭は警護のための現代騎馬警官に始まり、そのうしろに侍が二人、そのうしろに看督長代四人、そのうしろに騎馬の検非違使とその従者たち、そしうしろに…ということで、数百人の大行列になっていきます。
元々行列の警護を担っていたのは検非違使の一行でしたが、時代とともに形式に流れて、服装が華美になり、造花風流を競うようになり、鎌倉時代には警護の者としての実態を失ったようです。鎌倉時代末期の吉田兼好が徒然草に、検非違使にお付きの下級役人が衣服にいろいろの飾り物をつけて、そのために左右の袖が重くて自分ひとりの自由にならず、「人に持たせて自らは鉾だに持たず、息つぎ苦しむ有様いと見苦し」と記しています。
そこで、室町時代になると、実質的な行列警護のために、侍二人が先頭に加わるようになったようなのですが、これも検非違使の時と同じく、いつのまにか儀式行列の一部に吸収されて形式だけになったので、明治以降、騎馬の警察官がその前に並んで実質的な警護を行うようになったという経緯のようです。
この騎馬警官もそのうち吸収されて、伝統行列の一部になっていく可能性がありそうです。かくして伝統はだんだん長くなるの怪という話になるわけですが、以前に雅楽は千年間に十倍も長くなったという研究のことを紹介しましたが、伝統芸能の移り変わりパターンというのもおもしろい研究テーマだなあと思います。