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天保の改革の歌舞伎規制 水野忠邦vs遠山の金さん

江戸時代の天保期(1830~1844)は内政外政ともに大揺れの時代で、天保7年甲斐甲府の困窮農民3万数千人が蜂起するなどの大暴動一揆が各地に頻発、天保8年に幕府は来航したアメリカのモリソン号を打ち払い、同年大阪の街に困窮民が溢れかえるのに幕府が無策であることを批判して大塩平八郎が武力蜂起。このような状況から「内憂外患」という言葉がこの時代に生まれます。

この内憂外患の状況を打開すべく老中水野忠邦(上の絵の人)が登場して天保の改革(天保12年、1841年)に着手。人返し令、株仲間の解散令、上地令等が天保の改革の柱ですが、もうひとつの柱が出版芸能風俗の取り締まりでした。

世が乱れるのは市民が質素倹約を忘れ風俗を乱すからいけないのだ、という理屈です。

しかしここで老中水野忠邦の前に一人の奉行が立ちはだかります。北町奉行遠山景元、いわゆる遠山の金さんその人です。

まずは、当時の庶民の娯楽の象徴であった歌舞伎の規制をめぐる水野と遠山の意見を見てみましょう。

天保期の江戸では、堺町の中村座、葺屋町の市村座、木挽町の森田座の大芝居三座が興行を行っていましたが、天保12年10月、堺町の中村座から出火し、葺屋町の市村座にも延焼して芝居町が全焼すると、老中水野は、これを歌舞伎追放の好機と見て、火災延焼の危険を理由にして、芝居町全体を江戸中心部から辺鄙な場所へ強制移転させる案を作成しました。

これに対して北町奉行遠山は、火災延焼の危険は町家が密集すれば同じことであり、もし移転してしまうと芝居町で生計を立てている多くの周辺住民が生活ができなくなるし、芝居町を辺鄙なところに移しても人心を動揺させるだけで効果はない、という意見を提出して移転に反対します。

時の将軍家慶は、北町奉行遠山の意見に一旦賛同しましたが、老中水野は将軍家慶を説得する上申書を提出して巻き返し、天保12年、三つの理由を付して、芝居町の強制移転を実行します。その結果芝居町は浅草に移転して猿若町の名付けられ、このとき、歌舞伎ばかりでなく、様々な中小劇場や人形浄瑠璃なども、一緒に浅草へ移転させれることになりました。また当時の歌舞伎の顔とも言える5代目市川海老蔵は、贅沢や奢りを理由に処罰され、江戸から追放されてしまい、歌舞伎一旦衰退せざるを得なくなります。

老中水野が付した移転の三つの理由がこちらです。

1 役者たちが差別されるべき身分を忘れて、市中で町家の者たちと立ち交わるのは好ましくない

2 三座の芝居の内容が卑猥で、市中の風俗を乱している

3 芝居が派手な流行の元凶になっている

以前に江戸中期の儒学者太宰春臺の著書「経済禄」に書かれた音楽論として、次の文章を紹介しましたが、どうも、老中水野の芝居町移転理由は、この儒学の理屈とほぼ通じているように思われます。実際老中水野は雅楽を愛好する人物であったそうです。

「淫楽を聴けば、心蕩て淫佚にながれ、雅楽を聴けば、心正くなりて中和に合ふ」

「淫楽世に行はるれば民の風俗頽れ、雅楽世に行はるれば民の風俗正くなること古今これ同じ」

「風俗を移し易るものは楽なるゆえに、風俗を保つものも楽なり、されば国家を立るには初に雅楽を作て世に行ひ、淫楽を禁じて民間に用ひざらしむる、これ王者の要務なり」

どうも老中水野と北町奉行遠山の発想のちがいは、水野は儒学の形而上学的理想から考え、遠山は市民の暮らしの実態というファクトベースから考えているところにあるように思えます。なお、遠山金四郎さん、実は奉行になる前は、初代芳村金四郎という長唄方として舞台に上がっていた経験者だそうで、どおりで庶民の暮らしをよく知っていたはずです。

参考・江戸時代の古文書を読む 天保の改革 東京堂出版

・小唄の周辺 星野榮志著 演劇出版社

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