少し前のNHKの朝ドラ「らんまん」で、東京大学の植物楽教授矢田部良吉氏(ドラマの役名は田邊彰久)が、在野の植物学者牧野富太郎氏(ドラマの役名は槙野万太郎)に対する支援者にしてやがて妨害者になる人として登場しましたが、この矢田部教授は、植物学ばかりでなく、詩人でもあり、また鹿鳴館の舞踏会を推奨して明治日本の音楽の方向性について影響力のある発言をする人物でもありました。
明治政府の音楽動向をうかがい知るよすがとして、矢田部教授の音楽論を見てみましょう。
まずは、国による音楽の必要性について(青色の翻訳部分は私です)。
「音楽の風教上必要なるは東洋西洋を問はず先哲の既に論ぜし所にして今又喋々するを要せず(音楽学校論より)」…(音楽が徳をもって教え導くために必要であることは東洋西洋を問わず古来哲人が論じ尽くしてきたことで今さら議論をする必要もない)
「音楽ノ人生ニ缺クヘカラサルコト知ルヘキナリ,況ヤ音楽ノ雅俗ニ依リテ,國民文運ノ一班ヲ窺フニ足ルヲ以テ考フルハ,其國家ニ對シテ密接ノ關係アルコト…(大日本教育會雑誌の論説より)」…(音楽が人生に欠かせないことを知るべきである。ましてや音楽が風雅であるか卑俗であるかによって、国民の文化の動向を推し量ることができることを考えれば、音楽は国家にとって密接な大事であることは言うまでもない。)
「其國民ニ風尚品位ヲ養フヘキ音楽ヲ奬勵保護スルハ,其國家ノ當ニ務ムヘキ所タリ(大日本教育會雑誌論説より)」…(国民の気高い品位を養う音楽を奨励し保護することは、国家がなすべき責務である)
このように「音楽は国家の責務である」と大上段に振り上げて、次に民間音楽をばっさりと断罪する論調に移ります(音楽学校論より)。
「其曲と云ひ其辭と云ひ野鄙猥褻を極め言語同断なるもの…(〈民間音楽は〉その曲調も歌詞も野卑猥褻きわまりなく言語道断なものである)
「古の聖賢は音 の風教上緊要なるを論ぜしと同時に亦鄭聲の悪むべきを論じたり而して我邦の俗曲の如きは其最も甚しきものなり」…(古代の聖人は音楽が徳をもって民を教え導くために必要であることを論じたのと同時に、中国の春秋時代の鄭国の音楽がみだらでにくむべきことを論じたが、現在の日本の民間音楽のごときは、にくむべきものとして最も甚しいものである)
「端唄常磐津清元等は下等社會の最も學ふ所にして其餘波上流社會にも亦達せり…(日本の端唄、常磐津、清本などは下等社会において最も学ばれているところであり、その悪習の余波は上流社会まで浸食している)
「俗曲本は下等社會の修身教科書なり「バイブル」なり(中略)教科書たる學校讀本の如く面白からざるものに非ずして凡夫の凡情に訴え卑猥心に訴ふるものヽみならず加ふるに卑猥の音曲を以てするものなれば感化力のみより云へば天下無双教育社會絶無の好教科書なり」…(民間音楽の音楽本は下等社会の生き方の教科書や聖書のようであり、それは本当の学校教科書のように難しくはないので、物事を正しく見る知恵のない凡庸な人の凡庸な感情と卑猥な感情に働きかけ、さらにその卑猥な感化力は並ぶものがないほど強く、本来の教育社会では見られない最高の教科書のように強力である)
この民間音楽の嫌いっぷりは、みごとなほどに徹底的。
この論調には儒教における雅楽と淫楽の二分法の価値観がうかがえます。その背景には上流社会と下等社会の二分法の社会観があるようです。全体として江戸中期の儒学者太宰春臺の音楽論と同じ論法と言ってよいでしょう。
このように一方的に排撃される音楽の話を聞くと、私は俄然その音楽に興味がわいてくるという傾向がありまして、こき下ろされた端唄常磐津清元など、当時の民間音楽を聞いて見たいとう衝動がわいてきます。そういう意識で改めて聞いて見ると、これがなかなか味わい深いのです。強く排撃されるものは、大きなパワーがあればこそ排撃されたりするものですから、そのパワーの源泉をたどってみると面白い世界が見えてくるのではないでしょうか。