あれこれいろいろ

オルフェウスの竪琴とビウエラのなぞ 3

冒頭の写真はサンティアゴ・マタモーロスというスペインの守護聖人で、レコンキスタの象徴とされる人物。

さて、前回の続きですが、

この絵(↑)が、ビウエラの発明者がオルフェウスだとわざわざ明示した理由のふたつ目は、レコンキスタ直後という時代に求められると思います。レコンキスタ(キリスト教徒によるイベリア半島の国土再征服)によりグラナダが陥落しイベリア半島からイスラム王朝が消滅したのが1492年で、このビウエラ曲集が出版されたのが1536年です。この頃のイベリア半島には次のようなことが起きていました。

1492年のグラナダ陥落の際の降伏条項には、イスラム教徒の身柄保証、宗教の自由、風俗・言語・習慣・服装の維持、キリスト教徒はイスラム教徒を侮辱する行為をしないこと、イスラムに改宗したキリスト教徒は復宗を強制されないことなどイスラム教徒に寛大な内容が定められ、降伏後もイスラム教徒の生活は守られる約束だった。しかし、イスラム教徒に対する寛大さは次第に見せかけとなり、偏見や圧迫が横行する。アラビア風の服装や言葉の響きは迫害を招きやすく、買い物に出るだけでも狂信的な者から暴力被害を受けることも多くなった。イスラム教の信仰は守られるという約束は為政者からも反故にされ、1499年にはトレド大司教が全国的なイスラム迫害に乗り出し、キリスト教への改宗を強制して数千人の一斉洗礼を行った。1502年、国王フェルナンドはグラナダ、カスティーリャ、アラゴンのイスラム教徒に、改宗か追放の二者択一を迫り、イスラム教徒の多くは表面だけの改宗を余儀なくされたが、秘密裡にイスラム教を信仰し続ける者が多かった。キリスト教徒とイスラム教徒双方に不満不信が鬱積し、イスラム教徒への監視の目はますます厳しく強化され、少しでも信仰に疑いのある者は、異端審問所から嫌疑をかけられ火あぶりの危険にさらされた。1567年頃、フェリペ二世の時代の記録には、「異教徒はその奇妙な服装を捨ててキリスト教徒の帽子とズボンを用いることを命じられ、沐浴の習慣を廃し、言語と習慣と儀式はもとより、姓名もスペイン風にあらため、言葉はスペイン語を用いるように要求された」との記載が見られる。迫害に耐えかねたイスラム教徒はアルプハーラスの反乱(1568~1571年)を起こしたが、フェリペ二世はこれを弾圧し、アルプハーラスの山野はイスラム教徒の死体に覆われ、洞窟に逃げ込んだ者は火をかけて蒸し焼きにされたという。フェリペ二世を継いだフェリペ三世は、1609年、スペイン全土からモリスコ(キリスト教に改宗した元イスラム教徒)の追放令を発布し、50万人がアフリカに、20万人がフランスに追放されて難民化した。(参考・「物語スペインの歴史」 海洋帝国の黄金時代 中公新書」、ウイキペディア)

このようなレコンキスタ後の状況では、イスラム文化をまとうリュートを持っていることは、場合によっては異端の疑いを招きかねません。そこでスペインでは、リュートに変わる楽器としてビウエラが登場し普及することになり、ビウエラへの乗り換えが起きたようです。

実際この頃、音楽家や楽器製作家の呼称の面でリュートからビウエラへの置き換えが進んだことが、小川伊作氏の論文「ビウエラ研究序説」には次のようにまとめられています。

最初に15世紀前後のイベリア半島で起きた大きな変化に触れておこう。それは音楽家ないし楽器製作家の呼称に関するものである。例えばロドリゴ・カティーリヨRodrigoCatilloはスペイン宮廷の1488年の記録ではリュート奏者と記されていたが、 1500年にはビウエラ奏者と呼ばれていた(それぞれ‘tafiedorde 1aud’と‘tanedorde vihue1a’ )。楽器製作家も 15世紀には普通‘1audero’と呼ばれていたが、 16世紀には‘vio1ero’と呼ばれるようになったことが知られている (Smith2002: 221-225 ;同書には他に14世紀から 15世紀の 5名の音楽家が挙げられているが、いずれもリュート奏者[‘sonadorde 1aut’など]と記されている)。つまり 15世紀までイベリア半島では「リュート」という言葉が音楽家・製作家双方に適用されていたのに、世紀を跨ぐ頃に突然「リュート j という呼称、が使われなくなったのである。

以上のような状況を前提にすると、ルイス・ミランのビウエラ曲集に「オルフェウスがビウエラの発明者」と書かれた理由は、「ビウエラの起源はイスラム文化と何の関係もないことを示すため」であったように思われます。

ビウエラはイスラムと何の関係もありませんよというお墨付きが与えられて初めて、人々は異端と言われる心配なく安心してビウエラを弾くことができるようになるわけで、そういうお墨付きを明示することが、リュートからビウエラへの乗り換え需要を喚起する最大の広告効果にもなるわけです。

というわけで、ルイス・ミランが世界初のビウエラ曲集に、ギリシャ神話のオルフェウスの絵を掲載しビウエラの発明者と記載したことは、イベリア半島全体へのビウエラ普及に大きな戦略的効果を発揮したのではないかと思うのです。

次回に続く