昨日は平安時代の巫女の歌舞の様子を新猿楽記と梁塵秘抄の記述から紹介しましたが、現代の巫女舞はこんなふうです。
美しいですね。
現代の巫女舞は、明治はじめに整えられたもので、古代からの巫女の歴史の中ではかなり新しいものだそうで、そのあたりの歴史についてはウイキペディアにはこのように書いてあります。
1873年(明治6年)1月15日には教部省によって、神霊の憑依などによって託宣を得る、民間習俗の巫女の行為が全面的に禁止された(梓巫市子並憑祈祷孤下ケ等ノ所業禁止ノ件)。これは巫女禁断令と通称される。このような禁止措置の背景として、復古的な神道観による神社制度の組織化によるものである一方、文明開化による旧来の習俗文化を否定する動きもうかがえる。
禁止措置によって、神社に常駐せずに民間祈祷を行っていた巫女はほぼ廃業となったが、神社あるいは教派神道に所属し姿・形を変えて活動を続ける者もいた。また、神職の補助的な立場で巫女を雇用する神社が出始めた。後、春日大社の富田光美らが、神道における巫女の重要性を唱えると同時に、八乙女と呼ばれる巫女達の舞をより洗練させて芸術性を高め、巫女および巫女舞の復興に尽くした。また、宮内省の楽師であった多忠朝は、日本神話に基づく、神社祭祀に於ける神楽舞の重要性を主張して認められ、浦安の舞を制作した。
卑弥呼の例を見ても、古代日本の信仰は神霊と直接につながる巫女なくしては語り得ないのですが、明治政府は「巫女禁断令」という法令によりそのような巫女を排除し、神社所属の巫女の形に形式化しようとしているように見えます。男性神職の補助と巫女舞という限度で古代からの命脈を保ちながら、神々の言葉を降ろすという役割を削ぐことで、古代神道を政府の使いやすい形にしているように見えます。
ここで私が思い出すのは、巫女禁断令の2年前の1830年にハワイで出されたフラ禁止令。西洋世界の圧力によって、ハワイの自然崇拝、先祖崇拝の根幹であるフラが全面禁止になっています。後にハワイの伝統の消滅を憂えたカラカウア王がフラの復活を果たしたことでフラは現代に繋がることができましたが、ハワイという国家自体はアメリカに呑み込まれて消えてしまいました。
明治政府は、このように西洋世界の圧力が広がる中で、神道から呪術的な側面を取り除き、国家目的に沿うような神道に作り替えようとしたようで、このあたりは、ハワイの民族の伝統の本質を残そうとしたカラカウア王と正反対に、伝統を形式化する逆の方向に動いたと言えるかもしれません。
現代でも、巫女の定年は20歳代までであり、未婚女子に限るなど、巫女としての力を発揮しにくい態勢が続いているように思います。
政府がわざわざ民間の巫女を禁止するということは、政府がそこに警戒すべきパワーを見出したということでもあります。巫女を通じて政府の思惑と異なる託宣が世間に流布されるのを恐れたというのが一番大きいところでしょうか。国民統制には神の言葉を降ろすという巫女の古代からの力を無力化しておく必要があったのかもしれません。
明治政府がおそれた巫女のパワーの源泉は、残された巫女舞の美しさの中にも、確かに感じられるような気がします。