平安から鎌倉期、下層大衆の救済に力があったのは、官が関わらない私的な僧侶である私度僧(聖・ひじり)たちでした。しかしひじりと一口にいっても、法然、親鸞、一遍など有名な人たちから法師姿のただの乞食まで、その内実は様々です。
西暦914年に三善良行が書いた朝廷への意見書に、「諸国の百姓が、課役・租庸を逃れるために、髪を落とし法服を着て出家しているが、このようなニセ坊主がしだに増えて天下の人民の三分の二を占めている。彼らは妻子を持ち、生肉を食い、形は出家しているが、その心は獣を屠る卑しい人間とおなじである」と書いて、その規制を求めていて、人民の三分の二というのは誇張があるにしても、平安末期の世には僧の姿をした逃亡農民があふれていたことがわかります。これらの僧形の流浪の人々は、濫僧などとも言われますが、広い意味では聖・ひじりという言葉の中にも含まれます。
このような下層のひじりたちは、全く形だけのニセ坊主もいれば、自分流に求道してみて、呪術的なことをやって見せたり、勧進(民衆に念仏・誦経などをして勧めたり、寺院・仏像の新造・修復の寄付を求めたり)などの宗教行為をしたりして、世間に処しておりました。その結果、寺社の境内や宿場で、ひじりたちの口から、縁起談、霊験談、本地談、発心談、往生談など、フィクションと事実と伝聞がないまぜになって、様々な話、唱道が紡がれました。その日の稼ぎのために様々な工夫がこらされ、美辞麗句で飾られ、やがて語り口に曲節がついて、伴奏も入れて、最大限聴衆を惹きつけようとします。聖たちの競争の中、唱道は芸能化し、世俗談、伝奇談、合戦談なども取り入れて、大衆受けを狙います。諸国を旅してきたひじりたちは、各地の出来事や戦乱などの情報に触れることができ、情報伝達者としてのメディアの役割も入りこみます。
こうして聖たちの唱道は、現代のメディア的な色彩も帯び、小説、演劇、舞踊、歌、大道芸などのあらゆる面で後世の文化に影響を残していきます。
琵琶法師の平家物語もそんな現代まで伝わる唱道物のひとつです。縁起談や発心談、情報、歴史、娯楽、音楽性など、いろんな要素が詰め込まれ、壮大な世界を作り上げています。平家物語は歌舞伎、人形浄瑠璃の素材にもなり、近世以降の文学、文芸にも度々取り上げられ、現代の映画、演劇、テレビ、アニメなどにも登場します。無名の聖たちの文化的影響は非常に大きかったと言えます。
折口信夫は、唱道の中から、宗教的色彩がしだいに後景に退いていったとき、つまり「神事としての堕落は、同時に、芸術としての解放のはじめである」と古代研究第一巻で述べているそうですが、ひじりたちはまさにこの国の芸術のはじめに位置していた存在のひとつと言えそうです。
参考文献
・日本の聖と賎 中世篇 野間宏・沖浦和光著
・賎民とは何か 喜田貞吉著