身分の区別がはっきりしていた江戸時代には、上流武家屋敷向けの瞽女さん、下級武士・奉公人・裕福な町人など中流層向きの瞽女さん、下層の町人や農民など庶民向けの瞽女さんがいて、それぞれ異なる音楽需要に応じていました。
上流階級向きの瞽女さんとしては、例えば江戸城の大奥には「お目無し」と呼ばれる者が一人常駐して、大奥の三味線唄をすべて担当したり、大名・公卿の奥方(簾中)の「もてあそび物」としての音楽を提供し、その子女に琴や三味線を教えたりしていました。
中流層向きの瞽女さんは、ある程度裕福で余裕のある人々のお稽古需要に応じ、箏曲、三味線唄、浄瑠璃などを教えたり、裕福な家の座敷で舞の伴奏をしたりしました。江戸・京都、大阪ばかりでなく、地方城下町でもお稽古人気はとても高く、稽古の禁止令が度々出されるほど流行していたそうです。
庶民向けの瞽女さんは、例えば清水寺の舞台などで三味線を路上演奏したり、数人の集団で諸方に旅をして旅芸人として暮らしました。
現代では瞽女さんは北陸などの農村音楽のイメージが強いですが、元々はかなり都市的な音楽の提供者であった様子が見えてきます。
都市の音楽は時代とともに変化が早かったのに対して、農村の音楽は毎年繰り返される農作業とともにあまり変わらずに残った結果として、農村音楽としての瞽女さんだけが昭和まで続き、農村音楽の瞽女さんイメージだけが現代に印象付けられた、ということなのかもしれません。
参考・瞽女うた ジェラルド・グローマー著 岩波新書