あれこれいろいろ

音楽芸能に対する独占的支配

賎民に穢れ仕事が押し付けられると、いつしか賎民の利益独占権が生まれました。例えば利益が大きかったのは牛馬の死体から生まれる利益の独占権で、昔は武士も農民も牛馬を盛んに利用していたので、その皮細工などから生まれる利益は莫大でした。そのような様々な利益を巡って、賎民の間の権利主張、縄張り主張、階級の上下が生まれます。それは芸能に対する支配権という場面でも起こりました。

弾左衛門という、頼朝公のお墨付きという文書を持って、関八州から、甲斐、駿河、伊豆及び奥州地方十二か国のエタ頭として、エタ非人を総括する者がいたそうです(江戸幕府もその地位を認めていた)。

あるとき、能役者金剛大夫が江戸で勧進能を興行したとき、弾左衛門の手下五十人ばかりが舞台に乱入して興行を妨害し、これが訴訟に発展したのですが、頼朝公のお墨付きに「猿楽」という言葉が入っていることが証拠になって、能について有する弾左衛門らエタ側の権利が認められる方向となり、最終的には酒井讃岐守の仲裁で紛争は終了したそうです。

また宝永年間に房州で歌舞伎芝居興行の際にも、弾左衛門の手下が舞台に乱入して役者を脅迫して訴訟に発展し、このときも弾左衛門側は頼朝公のお墨付きを証拠に歌舞伎興行に対する支配権を主張したのですが、歌舞伎興行側は、歌舞伎は慶長年間に出雲のお国が始めたもので、浄瑠璃も治郎兵衛が始めたもので、それより古い頼朝公のお墨付きに含まれているはずがないと主張して、このときは歌舞伎興行側が勝利したそうです。

また盲僧琵琶の法師が江戸にきたときにも、弾左衛門が頼朝公のお墨付きを盾に支配権を主張し、このときは盲僧側が形勢不利と見て京へ逃げ帰ったため、事実上弾左衛門の勝利となったそうです。

ちなみにこの盲僧の世界もまた階級分化がものすごく、座頭・勾当・別当・検校と位がわかれ、その中がさらに16階73刻みに分けられ、階級によって分配金が決まるほか、服装、持ち物、家のつくり、供の数などまで決まり、路上で出会ったら下位者は笠を取り履物を脱ぎ二度礼をするなど事細かながんじがらめのようなしきたりがあったのだとか。

賎民は外から厳しい扱いを受けていたばかりでなく、内側でも厳しい世界を作りあげていた様子が見えます。

さて、日本の芸能はこれら賎民から生まれた芸能が元になって種々分化し発展したものがかなり多いので、こういう厳しく冷徹な支配構造は日本の音楽芸能界全般に今なお深い影を落としているように見えます。その厳しさから生まれる芸があったのも事実でしょうが、音楽芸能の自由な発展を阻害したのも間違いないでしょう。

今の日本の芸能世界は、伝統的なものもメディアの最先端と見られるものも、厳しい上下関係があったり、芸能事務所の支配権や個々の芸人の権利や自由のなさ、大御所的な権力者、セクハラやパワハラが秩序であるかのごとく浸透している様子など、非常に前時代的な匂いがあります。

賎民に対するツミケガレの押し付けというひずみから生まれているシステムなので、非常に根が深いわけですが、個人がどんどん自由に自分の音楽芸能を発表できるツールが登場している今日、それらの支配権の根は枯れつつあるように思います。