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木工談義17 何万の工程 何万の調整

久しぶりの木工談義コーナーです。(^^♪

以前、友人の木工の先生が、いっしょに食事をしながらこう言ったことがあります。

「椅子にしても、棚にしても、ひとつの木工作品を作りあげるには何千もの工程、もしかしたら何万もの工程があって、その調整のつながりで作品が出来上がると思うんですよ。いっとうさんも、そう思うでしょう?」

この言葉は、とてもありふれた言葉のようですが、実はとても大事な核心をつく言葉として、私の中にずっと残っていました。いつかこのブログにも書きたいと思っていて、でもどう書けばいいのかはっきりしないまま、今日まで取って置いたのです。まあいわば、とっておきの言葉ということになります。(^_-)-☆

最近、時々人にウクレレ作り教えるようになって、この言葉の核心が少し見えたような気がしたので、今日書くことにしましょう。

木工がはじめての生徒さんが木工作業をすると、失敗感を感じることが多いようです。慣れない作業をしているのですから、当然です。

でも、私の中では、作業がうまくいかなくても、それを失敗と捉える感覚が薄いようだということに最近気が付きました。木をうっかり傷つけてしまったりすれば、もちろん一瞬シマッタと思い、がっかりする気持ちは起こるのですが、それを失敗と捉える感じが私には薄いようなのです。傷ついた木を前にして、これをどう調整して次の工程につなげていこうということをすぐに考え始め、次につなげる方法が見つからなければ、戻れるところまで戻って作り直そうと思うことが、わりと淡々と起こるようです。

なんというか、失敗感の濃度が薄いのです。その感覚は自他どちら方向でも同じで、生徒さんがやりそこなっても、それを責める気持ちは起こりません。自分の場合と同じように、これを次の工程にどうつなげようかとただ考え始めることが起こります。

きっと、私の中に、木工はそういうものだという実感があるからだと思うのです。ここで冒頭に書いた言葉に戻るのですが、「何千何万の工程の微調整のつながりで木工作品はできあがる」ということが、そのとおりだと思うのです。言葉を換えれば、「何千何万の失敗の調整のつながりで木工作品は出来上がる」とも言えるのですが、それが実感として定着すると、しくじっても失敗とは認識しないという意識に入るのだと思います。ひとつひとつの調整作業の連続があるだけで、しくじりにも淡々と作業をするようになるのだと思います。

たとえて言えば、ノミで削っていて右に傾いたら次は左方向に調整するという作業の連続で最後はきれいに仕上げるという感じです。右に傾いたことの確認がとれていればよくて、傾いても失敗とは思いません。その感覚の先は、ただ何万の調整の連続があるだけになるようです。

冒頭に書いた木工の先生の言葉も、私と同じような感覚を言いたかったような気がします。その木工の先生も、生徒のしくじりを責めません。淡々と回復して次につなげるような感じで、生徒さんががっかりしていれば持ち上げます。木工作業の実感が、責めるという感覚と接点がないのだと思います。しくじりと成功の差も相対化されてしまって、あまり区別もないような気もします。友人がそんな感覚を言葉にして私に語ったのは、きっと私も同じ感覚を共有していると思ってくれたのでしょう。(^^

 

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