前回まで明治以降の盆踊りの変遷について書いてきましたが、明治以降の盆踊りは「健全化」の波に洗われてきれいになった盆踊りであったと言えます。では、明治以前の盆踊りはどのようなものだったのでしょうか。ちなみに、旧暦のお盆は7月15日なので、江戸時代以前に7月15日前後に例年行事として実施されていた踊りが盆踊りと考えられます。
「盆踊り」という言葉が初めて使われた資料は、室町時代の門跡である尋尊の日記「大乗院寺社雑事記」の1484年7月17日の部分。「盆踊りのこと、六日より奈良中でこれを止める。白毫寺・大安寺などもこれを止める。今夜は古市で大風流なり。この間、連夜、念仏踊りあり」との記載があります。この頃は応仁の乱が終わって間もない時期のため、人が集まることを警戒した室町幕府によって各地の盆踊りが止められたものの、古市というところでは大規模な風流踊りが敢行され、連夜に渡って念仏踊りが繰り広げられたというわけです。応仁の乱という極度の政治不安の中、町の盆踊りは政治とは別次元の熱気を帯びていたようです。
江戸時代に入り1600年代半ばの記録には、「毎年七月になると、江戸市中で男女の踊りが催され、夜までにぎわう(武江年表)」「(盆踊につき)、町々にて踊することいましむべからず(大猷院殿御実紀)」と記載され、江戸では盛んに盆踊りが踊られて幕府もこれを肯定的に見ていたものの、1677年には江戸市中で盆踊りが爆発的に流行し、毎晩明方まで踊り明かし、屋形船でまで出して踊り、装いをしつらえるために各町内で30~60両も費消するありさまになると、行き過ぎを警戒した江戸幕府は度々これを禁止するようになりましたが、流行は一向に止む気配がなかったということです。また同じく1677の京都の記録(黒川道祐の日次紀事)には、当時の京都の盆の踊りとして、「踊躍、念仏躍、児女踊躍、地蔵躍、灯籠躍、題目躍」が挙げられており、多様な躍りが盛んだったことがわかるととも、そこに「踊」の文字とともに「躍」の文字が使われていることからすると、かなり激しく跳ね躍るようなもの(念仏踊り系のものがその典型)が一般化していたことが推測されるのだそうです。
このように室町時代頃から盆の踊りという名目の踊りが一般化していたことがわかりますが、その起源は記録よりさらに古く、古代から中世にかけての日本中の庶民の生活から湧き出てきた様々なタイプの踊りが盆踊りに流れ込んでいます。どのような踊りが流れ込んでいるのかをざっくり挙げてみると、次のようなものがあります。
次回につづく