あれこれいろいろ

初期ブラジル移民の音楽 

日本からブラジルへの最初の移民船は1908年の「笠戸丸」(上の写真)。サンパウロのサントス港に781名の日本人移民が到着したのを皮切りに、太平洋戦争直前の1941年までに18万8千人の日本人がブラジルへと移民します。コーヒー園の契約農民から始まり1920年代から多くは自作農に転換していきます。日本の国策として移民が押しすすめられた最盛期の1925年から1935年までの10年間だけで13万5千人がブラジルに渡っています。多くは夫婦子供の家族連れの移民でした。しかし移民後に待ち受けていた生活は、「緑の地獄」とも言われる過酷な日々となります。

そんな移民たち家族が最初に欲しかった「奢侈物(ぜいたく品、高価物)」は、蓄音機だったそうです。電気がない環境ではラジオも使えませんが、手動の蓄音機なら開拓の最前線でも使えました。過酷な労働をようやく終えた夜のカンテラに照らされた薄暗闇では本も読めませんが、蓄音機なら光がなくても楽しめました。そしてジャングルの闇で聴いたのは懐かしい日本の音楽です。

1924年(大正13年)の日系商店のブラジルへの輸入レコードリストには、琵琶歌、浪花節、端唄小唄、義太夫などが多数並び、それらのジャンルに紛れて、書生節、唱歌、軍歌、楽隊ものなども混じります。翌1925年3月のレコード広告には、「唱歌、童謡、童話」の項が追加され、「説教浄瑠璃」、「万歳」、「落語」も加わり、8月の広告には、さらに尺八、ピアノ、ハーモニカ、合奏、歌劇(宝塚など)、映画説明、新派劇、芝居、詩吟、長唄、歌沢、清元、常磐津、新内などが追加され、日本音楽のレコード需要の高さがうかがえます。

夜のジャングルに囲まれた粗末な小屋の薄暗がりに鳴る常磐津は、どんなふうに聞こえたことでしょう。それは暗闇に色鮮やかに立ち上がり、周囲から迫りくるジャングルのモノノケの幻影を押しのけて、文化的な結界で包んで闇から守ってくれたかもしれません。また過酷な労働でボロキレかケモノのような気分になった中、自分がまだ人間であることを再確認させてくれるわずかな手段であったかもしれません。

ジャングルの中に蓄音機とレコードは、きわめつけの奢侈品のようにも見えますが、実際は人が人らしくあり続けるための必需品であったようにも思われます。

参考 戦前ブラジルの日系レコード産業 細川周平 (日本の音の文化 第一書房)

 

 

 

 

 

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