古事記や日本書紀などにある神話は、元々は声に出してメロディ付きで歌われていたもので、「歌」の一種であったのだとか。神話を歌う形は沖縄・奄美には断片的に残っており、また中国西南部の苗族、瑶族、壮族、白族などの少数民族には歌う形の創世神話がある程度体系的に残っているそうです。しかし残念ながら日本本土では神話を歌う形はもう見られず、文字としての神話があるだけです。
また、風土記などの土地の記録や、万葉集などの庶民の生活心情の記録なども、同様に「歌」であったそうですが、これも現代では「文字」記録です。
「歌」と「文字」の間には、文明を変質させる境界があるような気がします。
文字のない時代、記録は歌として伝承された(口伝の朗唱には自然に抑揚が付きリズムや節が付いて歌になったのではないか)のが、文字が生まれると、伝承は文字を通して行われるようになります。すると、伝承内容が同じであっても、それを受け取るときに使われる脳の場所が異なることになり、理解体系に変質が起こるように思われます。その結果、その神話を基底として形成される文明も変質するのではないでしょうか。
文明が異なるステージに変化する大きな要素として「歌」と「文字」があり、現代はそこに「AI」という大要素も加わると、さてどんなことになっていくのか。私としては「AI」が強くなるほど「歌」の要素(歌・朗詠・朗唱・踊りなど、情報が体に乗ってくるもの)が一層重要になって復活してくるのではないかという気がしています。体感はAIの及ばない人間の持ち味だからです。その体感もボディシェアリング技術を通してアバターやロボットにまで拡大していくのかもしれないので、AIと体感が対立するのではなく、融合して多様な色合いを作っていくということになるのかもしれません。
参考 「歌垣と神話をさかのぼる 工藤隆著 新典社」