あれこれいろいろ

アンダルシア音楽の始祖 ズィルヤーブ(ziryab)

ズィルヤーブを始祖として、イベリア半島から北アフリカに広がったアンダルシア音楽。このズィルヤーブという人は、なかなか個性豊かな天才であったようです。

8世紀後半から9世紀前半のアラブ世界は、東方のアッバース朝を中心として、北アフリカのチュニジアにはアグラブ朝があり、イベリア半島のアンダルシアには後ウマイヤ朝がありました。

ズィルヤーブはまずアッバース朝の大音楽家イスハークのもとで伝統派(当時は伝統派と革新派が競っていた)の最も正当的なアラブ音楽を学びますが、カリフの前で師匠イスハークと異なる音楽論を展開してイスハークに疎まれ、バクダードから追い出されます。

バグダードを出たズィルヤーブは、チュニジアのアグラブ朝に移り、20年近く宮廷音楽家として過ごしたようですが、アグラブ朝の支配者アッラーフ1世の前で自分の肌の黒さを自慢してみせたことで怒りを買い、むち打ちの刑に処せられ、やはりここも追放されます。どうも自慢して怒りを買う癖があるようです。

アグラブ朝を出たズィルヤーブは、今度は海を渡ってイベリア半島に上陸し(822年)、後ウマイヤ朝に自分を売り込みます。当時の後ウマイヤ朝は、僻地の王朝ということで東方のバクダードに対する憧れがかなり強かったらしく、アブド・アッラーフマン2世は、ズィルヤーブを東方アラブの先進文化をもたらす者として大歓迎。破格の待遇を与えられたズィルヤーブは、才能を存分に開花させる機会をようやく得ます。ズィルヤーブは音楽面はもちろん、髪型、料理法、クリスタルの食器、衣服、立ち居振る舞いなど、あらゆる方面で後ウマイヤ朝の宮廷の手本とみなされるようになったそうです。

ズィルヤーブの音楽的才能は素晴らしく、大変美しい声の持ち主で持ち歌は一万曲に及び、ウードの演奏に優れ、音楽関連の深い知識を有し、最も伝統的で正統的なバクダードのアラブ音楽に精通した上で創意工夫を次々に加え、自らウードを製作して重量を大きく変えたり、特別な紡ぎ方をした絹と若いライオンの腸で作った弦を試してその強さと音の深さと明晰さを主張したり、従来粘液質、血、胆汁、黒胆汁を意味していた四本の弦の中央に魂を意味する赤い弦を加えてウードを五弦化して表現領域を広げたり、撥を木製から鷲の羽軸に変更して弾きやすく弦を傷めないようにしたりしました。また音楽教育にも熱心に取り組み、ターバンで腹をくくって発声させたり、木片を咥えさせて口の開き方を矯正したりと、具体的な教授法を工夫し、系統的で段階的な教育カリキュラムを確立して多くの弟子を養成し、伝統性と先進性を兼ね備えた音楽の普及と継承の基礎を作りました。

月並みな言い方ですが、やっぱり天才です。ズィルヤーブの作ったアンダルシア音楽は、15世紀までの700年間もの間イベリア半島の音楽のいしずえとなり、レコンキスタの後は移民によってチュニジア、アルジェリア、モロッコなど北アフリカに定着して現在まで引き継がれていきます。中でもアルジェリア西部からモロッコにかけては、後にトルコの支配を受けることなく音楽がトルコ化することもなかったので、アンダルシア音楽の原型に近い形で今も継承されていると言われています。

モロッコのアンダルシア音楽の例☟

参考文献

大音楽家ジルヤーブとその時代

アンダルシア音楽の構造

「アラブの音文化」第二章から アンダルシア音楽のしくみ

 

 

RELATED POST