イザベラバードは、19世紀末から20世紀初頭にかけて、世界中を旅して紀行文を書いた女性旅行家。明治11年(1878年)からの日本旅行で、内陸まで一人旅をし、世界に明治初期の日本の人々の姿を紹介しました。
イザベラが、明治11年10月11日、江戸のイギリス公使館で、日本の高位高官の子弟男女各六人によるオーケストラ(琴五台、笙二本、神楽笛、高麗笛、歌、舞というから、雅楽か能楽のようなものか?)を聴いた感想がこちらです(「バード日本紀行」雄松堂出版 より引用)。
「再び、楽器が泣くような音やキーという音で、恐ろしい不協和音を奏でた。小さな官女が音楽に合わせた二曲の長い踊りで私たちをもてなした。四季を表している曲であった。実際、その演技はまるで踊りではなく、完璧な正確さで繰り広げられる演劇の仕様であった。扇子がひっきりなしに使われ、小さな姿を小気味よくゆすぶり、足はほとんど動かさなかったが、時折、古代の抒情詩のように、強調を示すために踏みおろされた。顔の表情は決して変わらなかった。それはお面だったのかもしれない。私たちは完全に無視されていて、うわ目づかいの眼は私達に向けられていなかった。訓練は完璧で、劇の構成も完全であった。この小さな『王女』が完璧に落ち着き払って踊り通したのは、とても見事であった。最後におじぎをして、さらにもう一度全員におじぎをしたが、これも芸術作品であった。その気品は痛々しかったが、失笑を誘うものではなかった」
「音楽の演奏については、私はあまり書く自信がない。もし私がひどく苦しめられて、急性神経痛の激痛を味わったとしたら、それは私自身の責任であったかもしれない。演奏者達は喜んでいたし、サトウ氏の落ち着いて思慮深い顔には、苦悩の跡は見られなかった。東洋の音楽は、私にとって苦痛をあたえる謎である。シオンの丘の神殿でのオーケストラの音楽も、西洋人の耳にはこれほどは耳障りなものではなかったのではないかと、そのとき思いをめぐらしたし、今なお疑っている。越えることのできない大きな溝が、東洋の調和と西洋のそれとを分けているのだ。演奏者達は、私達の音楽を聞きたいと望んだので、マウンジー夫人が最も美しく、悲しげな調べを数曲奏でた。演奏者達は彼女の周りに立ち、顔には鑑識眼のある聡明な表情を浮かべていた。見込みのありそうなものではなかった。彼らは、ていねいに彼女に礼を述べたが、その東洋人らしい礼儀正しさをもってさえも、ほめ言葉をでっち上げることはできなかった。それから彼女は、葬列よりももっとゆっくりした速さで、サウルの葬送行進曲を演奏した。しかし、ほとんどさげすむような非難の表情が彼らの顔に見られた。その楽器も行進曲も明らかに退屈でつまらなく、感情を欠いたものだった。この人達はみな、育ちがよく、非常に聡明であった。 琴が五台、笙が二本、つまり朝鮮の笛と日本の笛があった。歌の発表も二、三あった。これらはいくらか決まりがあったかもしれないが、歌い手はまったくパートに分かれておらず、それぞれが自由に自分で工夫して、逸脱してもよいように思えた。音楽はまったく一本調子であり、失望の連続で苦しめられた。まさにハーモニーになろうという寸前で、震えているように思うと、必ずまったくと不協和音に再び戻ってしまうからだ。ピアノはなく、すべてフォルテ、クレッシェンドとフォルテシモであった。しかし、ミューラー博士は言う-彼は日本人とその音楽をよく理解して研究している人であるが-「私達の音楽が日本人にどのような印象をあたえるかをもし私に問われたら、私達が彼らの音楽をいまわしいと思うより、日本人の方がはるかにもっと私達の音楽をいまわしいと思うだろうと言っても、あまり間違いではないのは確かである。ある有名な日本人が、『子供、人夫、女達は西洋の音楽を喜ぶかもしれないが、教育のある日本人はとうていそれに耐えられない』と言った。」
明治11年の東西の音の交換は、失望と苦痛の交換に終始したようで、異なる文明では音に期待するものがこんなにも異なるのは、やはり驚きです。
人類の共通言語になりえるのが音楽の性質だと思うのですが、文明ごとの特異性を持つというのもまた音楽の性質なのでしょうか。