竹林の七賢たちは飲酒酩酊を良しとする飲酒文化を持っていましたが、この時代、実は薬物服用も文化人の間で大流行。この薬物文化は魏の国の「何晏(かあん)」という人物から始まります。
何晏は、老子と易経の研究を好み、空談の祖とも言われる人物でしたが、体が弱いのを克服するため「五石散」という薬を飲み始めます。五石散は、石鍾乳、石硫黄、白石英、紫石英、赤石脂を主成分とする毒物ですが、飲み方しだいでは薬にもなったそうで、この五石散の服用で健康を回復した何晏を真似して、富裕な文化人の間で五石散の服用が大流行。その後隋唐までも続くドラッグ文化となり、中国の文化芸術に与えた影響は小さくなかったようです。
五石散の飲み方は大変難しく、常に死の危険と隣り合わせでした。服薬後は歩いて薬を発散させなければならず、これを「散発」と言います。散発しないと死んでしまうので必死で歩きました。その歩き回る様子が散歩という言葉の語源になります。発散後は全身発熱と悪寒に襲われるようになりますが、服を脱いで冷食し冷水を浴びなければなりません(酒だけは熱燗にします)。冷食はかきこむように早く食べます。悪寒がするからといって重ね着して体を暖めたり熱い物を食べたりすると死んでしまいます。当時の服がゆったりしているのは体を冷やすためでした。服薬後は皮膚が擦れて傷つきやすくなり、新しい服や靴を着用できなくなり、中古の柔らかい服とサンダル履きがスタンダードになりました。体を洗っても皮膚が傷つくので汚くなり虱が湧くようになりました。当時の漢詩には虱がよく登場するようになって、「虱をつぶしながら談ず」るのが文化的な美事のようになりました。
服薬の苦しみは激しく、発狂しそうになったり、痴ほうのようになったり、性質が火のようになって癇癪持ちになり、高慢で荒っぽく、ハエを剣を抜いて追いかけてみたり、馬鹿げたことを声高に語ったりという症状も出たそうです。
このように何もいいことがなさそうな五石散の服用ですが、これが痴の人を良しとする文化として以後の思想文芸に影響していきます。竹林の七賢の飲酒酩酊の愛好も同じ文脈のひとつと言ってよいでしょう。
このような文化が流行した理由は、些事にとらわれず壮大で愚であることを尊ぶ老荘思想に表面上似ていたことと、儒教の礼による細かな束縛を超越する行動様式になり得たということにあるようです。実際、死なないためにやたらに歩き回り、時を選ばず冷食をかきこんで、まともな服装も放棄して始終狂ったようになっていると、どうにも手が付けられない人として礼の決まり事はふっとんでしまったようです。そんな様子が非常に文化的で高邁にも見えて真似する人が続出し、そのうち服薬しなくても熱く壮大なことを語って超越者然とする文化にも繋がって、後の文芸に少なからず影響を与えたようです。
日本にはドラッグ文化はありませんが、飲酒酩酊を良しとする文化は特に昭和までかなり浸透し、音楽面では酒を歌うものが多く見られます。
アメリカにはドラッグの影響下による文芸や音楽が今なお非常に多く見られ、ドラッグによる肉体や社会からの超越は、今なお人の心を捉えて続けているようです。ドラッグ音楽がわかりやくすまとめられているページがありました。こちらです。↓
https://www.fuze.dj/2018/07/drug-songs-20.html