外国から木を輸入して、それまで使っていた日本の木の代替材として利用するときに、新榧とか米松とか南洋桂とか、日本の木の名前を付けてしまう(全く別種の木でもお構いなしに)という名付け方について先日書きましたが、このやり方の問題なところは、輸入前の土地でその木が形成していた生態系や周辺文化のことが、すっかり忘却されてしまうことにあるように思います。
たとえば、「新榧」と名付けられたシトカスプルースは、北米アラスカやカナダ西海岸に分布し、氷河に囲まれたフィヨルドや、トウヒやツガの苔むした深い巨木の原生林の生態系や、ザトウクジラなども生きる海の生態系や、先住民トリンギット族の暮らしや文化など、様々な生命現象と結びついていた木ですが、「新榧」と名付けられたとたん、それらの原風景はすっかり消えてしまって、安価に大量に出回る「代替材」という個性のない無機質なものに姿を変えてしまいます。つぎの写真のようなシトカスプルースの原風景が、みんな隠されて見えなくなってしまうのです。


「新桂」や「南洋桂」や「南洋桧」などと、でたらめな名を付けられたアガチスも同じです。アガチスは、東南アジアからニュージーランド、フィジーなどオセアニア一帯に分布する常緑針葉樹で、それをニューギニアではアガチスと呼び、インドネシアではダマール、フィリピンではアルマシガ、マラヤではダマルミニャク、ニュージーランドではカウリと呼び、それぞれの土地の生態系と暮らしや文化と結び付いていました。例えば、ニュージーランドのマオリ族は、この木をカヌーや建築材として活用して、自然と共存して来ましたし、この木の樹脂は琥珀のような輝きを持つことで有名で、工藝や装飾品に利用されます。中には樹齢1000年を超える木もあり、マオリ語で「森の神」を意味する「タネ・マフタ」と呼ばれる樹齢2000年の巨木(下の写真の木)もあります。それらの原風景が、新桂、南洋桂、南洋桧などの名前からは、見えなくなってしまいます。
また、楽器業界では、マホガニー属ではない近縁種のカヤ属の木をアフリカから輸入してきて、アフリカンマホガニーと呼び、従来のマホガニー属の木の代替材とするのが一般ですが、アフリカではその土地の名前があったはずですし、樹皮から薬をとったり、カヌーを作ったりと、暮らしに結び付いた木ですから、元々の土地の名前を尊重した方が、ずっと深みがあるように思えます。
雑草という名の草はないという言葉があるように、木にも「代替材」という名の木はないという気がしてしょうがありません。代替材としていいかげんな名付けが始まると、それはとたんに個性も生命もない無機質な物体となり、いくらでも替えがある、いくらでも伐り取っていいという収奪の対象になってしまうようです。そして収奪していることにも気が付かないくらい感覚がマヒして、背景で多様な生態系や現地の暮らしの循環が断ち切られていることが意識できなくなります。
どうもこの名前を勝手に変えるというやり方は、相手を支配する魔法や麻薬のようなところがあって、千と千尋の神隠しの話の中で、湯ばあばが相手の名前を奪って千やハクを支配した手法に似ているような気がします。千とハクは元の名前を思い出すことで、その支配から抜け出していくわけですが、木の場合も、その元の名前を我々が思い出すことによって、それが織りなしていた生態系や暮らしの循環に立ち戻るはじめの一歩とする必要があるのではないでしょうか。
