アプリあるいはAIの「中毒的な設計」「アルゴリズム」「ドーパミンの分泌刺激」が違法になるのか、という昨日の話のつづき。
このブログは音楽関連ブログなので、とりあえず音楽の場合について考えてみたいと思います。
そもそも、音楽というのは、それ自体ドーパミンの分泌刺激のために設計されているとも言えます。名曲を聴いて鳥肌が立つようなときは、ドーパミンがばんばん分泌されています。そういう名曲の音楽的構成は、アルゴリズムの一種です。ベートーベンとかビートルズとか様々な宗教音楽とか、ある意味みんな天才的な中毒的設計がされているとも言えるでしょう。
どうやら、「中毒的な設計」「アルゴリズム」「ドーパミンの分泌刺激」という要素が、そのまま違法という評価になるわけでもなさそうです。
それでも最近のアプリにある種のこわさを感じるのはなぜかというと、どこかの誰かがアルゴリズムを勝手に決めていて、その過程が公開されていないということに大きな要因があるように思います。アルゴリズムの決定に参加したり異議を言う機会が誰にもなく、どのようなアルゴリズムに日々支配されているのかもわかりません。そのアルゴリズムが、ある日一方的に変更されたりすることも日常茶飯事ですが、変更された事実が告げられることもありません。そして、そのアルゴリズムの結果、ある種の情報だけが何度も表示されて情報の偏りが生まれ、異なる情報が知らないうちに遮断されていますが、その偏りに気が付かない仕組みです。それらの結果、ひとりひとりの自己決定権が知らないうちに奪われ、社会の多様な価値観が抹消されていく、そんなところに問題点がありそうです。
丁度昨日、私は衆院選の期日前投票に行ってきたのですが、アルゴリズム決定や変更に対するひとりひとりの参加権が必要な時代に来ているのかもしれません。アプリやAIは、政治権力に劣らない圧倒的な支配権を我々の日常に及ぼしてきており、世界の富や資源を再分配しているのですから。