明治時代の芸能に対する規制は多岐に渡ります。盆踊り禁止令、演劇類似行為禁止令、巫女禁断令など多方面に及びます。
その影響は、例えば、歌舞伎界では風俗を害さないよう言葉が改訂されて芸風が変化したり、落語界では屋内を真っ暗にすることが禁止されたので怪談の演出ができなくなったり、鳴り物や伴奏を入れた演目が禁止されたり、演劇類似行為が禁止された結果芝居噺ができなくなって話芸にシフトしたりということなどが起きました。
様々な規制の中でも、門付け芸人等の路上音楽活動に大きな影響があったのが、日本各地で行われた「乞食の取締り」です。
明治5年、ロシア皇太子の訪日に合わせて、東京府では乞食の大掛かりな収容に乗り出しましたが、収容された乞食の多くは、門付け芸人であったと考えられています。
同年、山梨県では、「乞食徒」の復籍を命じ、乞食を旧籍の村に送るため公費を支出し、明治6年には「瞽女稼業」も禁止しています。
明治5年、鳥取県では、道路を往来する者の雑曲や歌を禁止し、翌明治6年には乞食を禁止、越後獅子の興行差止め、明治7年には、農業の余暇の萬歳、人形遣い、手踊りも「浮薄遊情の民」として興行許可がなければできず、明治8年には歌舞音曲に携わる芸人とその指南者に特別の税金を導入しました。
明治6年、群馬県では、「乞食非人ノ類」の徘徊禁止を再確認し、「梓巫市女、瞽女、辻浄瑠璃、祭文読之類」を発見次第役人に報告すべきとされました。
明治8年には、埼玉県で、「遊戯をもって渡世とする者」に鑑札を交付することが決定され、「小歌・浄瑠璃の演奏者、笛・尺八・太鼓・琴・三味線・琵琶などを弾く者、手踊り、祭文読み、俳優、手品師、人形遣い、相撲取り、軽業」などが鑑札の保持を義務付けられました。
このように江戸から明治に切り替わったとたん、明治政府及び地方政府は様々な手段を尽くして路上芸人の排除に乗り出したのです。政権交代早々から芸能取締りに着手したのは、国際的な基準に合わせて芸能風俗を適正化しようとしただけでなく、放浪者を定着させて課税対象人口を確定し、戸籍整備による国民統治の円滑化をはかるなどの目的もあったのかもしれません。
そこには為政者としては当然の発想も含まれていたのかもしれませんが、だからと言って民間芸能弾圧がただちに正当化されるはずがありません。にもかかわらず、明治政府が芸能弾圧を躊躇なく断行できたのは、民間音楽(俗楽)はすなわち淫楽とほぼ同義ゆえその撲滅は国家の責務であるという、儒教の雅楽・淫楽二分論の音楽観が政策決定者の脳裏に深く浸透していたからでしょう。
参考・「瞽女うた」 ジェラルド・グローマー著