前回、古代日本の琴は天上の神の降臨を召喚する呪具として使用されたらしい、ということを古事記・日本書記の記述から書きましたが、記紀には、琴を作る経過を書いた話がふたつ出てきます。どちらの話も、天皇名や地名が変わっても、基本プロットは同じです。
古事記の仁徳天皇の条
仁徳天皇の時代に、とのき河の西方に高い樹があった。その樹の影は朝日にあたれば淡路島にかかり、夕日に当たれば高安山を超えた。この樹を切って船を作ったところ、非常に速い船になった。その船を枯野と名付けた。この枯野の船で朝夕淡島島に渡って泉を汲み天皇に献上した。この船が壊れたら今度はそれで塩を焼き、燃え残りの木を取って琴を作ったら、その音は七里に響き渡った。そしてこう歌った。
『枯野(からの)を 塩に焼き 其(し)が余り 琴に作り かき弾くや 由良の門(と)の 門中(となか)の海石(いくり)に 触れ立つ 浸漬(なづ)の木の さやさや』
(枯野船を塩を作るために焼き、その余りを琴に作って弾いたら、由良の港の海石で震えているナズノキ(=意味未詳)のようにさやさやと音がするよ)
日本書記の応神天皇の条。
五年の冬十月に、伊豆国に命じて船を作らせた。長さ十丈の船ができあかり、海に浮かべると軽快に走り馳けるようであった。船を枯野と名付けた。三十一年の秋八月、天皇は諸卿にこのようにおっしゃった。『枯野と名付けて官船として長く使用してきた船は伊豆国から献上された船であったが、朽ちて使用できなくなってしまった、しかし長らく官船として働いた功績を忘れるべきではない。なんとかして、その船の名を後に伝えたい』諸卿はこのみ言葉を受けて、官僚に命じて、船の材を取って薪として塩を焼かせた。五百籠の塩ができたので、これを施して諸国に広く与えた。枯野船で塩を焼いて最後に燃え残った木があった。その燃えないことを不思議に思い燃え残りの木を天皇に献じたところ、天皇はこれを怪しんで、琴に作らせた。その琴の音はさやかに遠くまで聞こえた。この時天皇はこのように歌った。
『枯野を 塩に焼き 其が余 琴に作り 搔き弾くや 由良の門の 門中の海石に触れ立つ なづの木の さやさや』
共通キーワードは、「大樹・船(枯野)・塩・燃えなかった木・琴・天皇・由良の門の海石のなづの木」ですが、これらのピースから何か見えてこないか、とミステリー小説のような謎解きのわくわく感があります。
長崎大学の研究報告「大樹伝説と琴(勝俣隆氏の報告)」は、中国の文献や記紀の大樹伝説を引用分析しながら、大樹と琴の関係について次のように結論付けています。
結論として、大樹は、宇宙樹としての性格を持ち、天地を結合し、天上の神々が地上に降臨するための通路としての役割を果たしていることから、その大樹から作られた琴にも同じ性格が付与され、その結果、大樹伝説と琴が密接に結びついたと言えよう。つまり、琴は、大樹から作られることにより、聖性を獲得し、天上の神々を降臨させる呪具となり得る
この考察からすると、大樹から作られた琴のほか、船も、塩も、燃え残りの木も、全部天上の神々に通じる聖性を持つことになるのでしょう。
枯野船の軽快な速さ、海を幾度も往来してものを運び続ける力、燃やしても燃え尽きない不思議さ、塩という必需品を作り諸国に行き渡らせる力、陸にも海中にもはるかに届く琴の響きなどの表現は、天上の聖性の具体的表現なのでしょうか。
最後に、肥前国風土記神崎郡には、琴が木に戻るという循環的な話があります。
琴木の岡 …この地は平原で、元来岡ではなかった。大足彦の天皇(景行天皇)は、「この地の形は、必ず岡があるべし」とおっしゃって、部下に命じて、この岡を造らせた。造り終えたとき、天皇は岡に登って、賞賛して宴がたけなわとなった後、琴を立てたところ、琴は樟(くすのき)の大木になった。高さは五丈、周囲は三丈あった。そこでこの岡を琴木の岡と言う。
琴木の岡がある肥前国神崎郡とは佐賀県の神崎ですが、毎年11月に世界中から気球が集まるバルーンフェスティバルで有名な場所です。空に舞う気球の様子が、天と地を結ぶ枯野船のようでもあり、なんだか佐賀の神崎の琴木の岡を探しに行きたい気分になってきます。