あれこれいろいろ

トランス音楽の宝庫 インドネシア(ジャワ島、バリ島等) 

昨日紹介したジャワ島のジャティランのほかにも、インドネシアの音楽を見ていると、トランス・憑依(祖霊、動物礼、精霊)があたりまえのように出てくることに驚かされます。トランスや憑依というものをインドネシアの人々は人生の一部として受容しているようです。踊り手も観客も、自分から積極的にトランスに自分を委ねて行く様子も見られ、そこには大抵音楽(ガムラン、歌など)と舞踊と精霊等を模した仮面・人形・衣装による演劇的やりとりがあります。音楽・舞踊・演劇的要素が組み合ってトランスに入りやすい場を作っているようで、演者と観客が一緒に作るトランス音楽舞踊劇場といった風情です。現在では観光化したトランスも多いようですが、それも含めてインドネシアにおけるトランスの日常性がうかがえます。

トランスを伴う様々な祭礼の動画をいくつかご紹介。(村落の儀式のトランスもあれば、観光用トランスもあります)

バリ島の祭り オダラン↓

バロンダンス(チャロナラン)↓

サンギャン↓

バリ島のケチャ↓

こられのほかにも、墓地をさまよう霊魂を招き入れた等身大の人形を皆で持ちあげ、人形が動くにまかせて人々が振り回されるという「ニニ・トウォン」とか、着飾って集団で踊る少女に霊が憑依して観光客と一緒に踊ったりもする「アング・プトリ」など、様々なバリエーションがインドネシア各地にあるようです。

ところでここで特に触れておきたいのは、インドネシアにおける善悪概念の特徴です。最後の動画のケチャには、日本語で悪魔儀式という題名がつけられていますが、インドネシアの善悪の概念は西洋的な善悪とは異なるようです。インドネシアの善悪といわれるものは、上下・優劣・正邪という評価でなく、プラスとマイナス、陰と陽、引力と斥力などの物理的な極性概念に近く、両者はバランスしているという考えかたのようです。下からふたつめの動画のバロンダンスでは、善を象徴する聖獣バロンと悪を象徴する魔女ランダが対立し、それぞれが優勢になったり劣勢になったりしながら、悪が退治されるという結末にはならないのだそうで、確かにふたつの極性という見方であれば、ふたつの力は常にバランスの中で存続するのは当然なのでしょう。(本当は善悪という言葉をあてはめること自体適切でないのでしょう。実は様々な力の相互関係があるだけで、それが悪と見えたり、善と見えたりという、バランス移動があるだけという発想かもしれません)

このようなバランス概念であることも影響して、インドネシアの人々はトランスや憑依によって霊なる力にアクセスしてバランスを取ろうとしているのかもしれません。インドネシア各地で繰り広げられる音楽と踊りと演劇は、この力のバランスという目的に向かって収れんしているようにも思えます。

キリスト教以後の西洋音楽が価値の優劣としての善悪概念のもと、悪を排斥し善を志向する音楽体系を形成してきたのに対し、インドネシア音楽は善悪を超えてバランスをとるという別種の音楽体系を構築しているようで、さらに研究したい一分野です。

参考・インドネシア芸能への招待 皆川厚一著