日常を離れて聖地を訪れる巡礼の旅の習慣は世界中にあります。
日本なら伊勢参り・四国八十八か所巡り・金毘羅参り等、イスラム教ではメッカ巡礼、ユダヤ教の嘆きの壁の巡礼、ヒンズー教のヴァーラーナシーでのガンジス川沐浴の巡礼、キリスト教の教会・聖地・聖遺物の巡礼等々。
14世紀中世イギリスの巡礼の旅は、楽器と歌声でとても賑やかであったようです。時は英国国教会成立前、ローマ・カトリックが信奉され、最初の聖書英語訳が出る時代。イギリス南部アランデルの大司教の審問にこたえて、ウイリアム・ソープという人物が当時の巡礼の旅の様子を語っています。
「あらかじめ、淫らな歌のうまい男女を一行の中に加えておきます。また、他の巡礼はバグパイプをたずさえていくというふうで、巡礼が通過するどの町も、彼らの歌の喧騒、バクパイプの音、それにガンガン鳴るカンタベリの鐘の音、一行のあとを追う犬の吠え声、おかげで、弦楽器や宮廷詩人を従えての騒々しい大名行列が通過するときよりもやかましいほどでありました」(C.K.ザカー、<好奇心と巡礼>)
これはおそらくカンタベリ大聖堂への巡礼の旅の様子ですが、当時のイギリスの巡礼の旅は、様々な階級の人たちがこのときばかりは身分の違いを超えて寄り集まり、尼僧も司祭も騎士も法律家も大工も船乗りも農夫も粉屋も説教師もみんな一緒に旅をしたようです。その様子はチョーサーのカンタベリ物語に詳しく書かれていますが、立場も身分も超えたおしゃべりと歌と音楽に彩られ、非日常のお祭り空間に浮かれ出たよう。
敬虔な巡礼を推奨する教会側はこんな様子に問題意識を持っていたようですが、しかし日常の仕事からも、悩み事からも、身分からも、あらゆる習俗的な縛りからも解放されたひとときですから、修学旅行の枕投げの楽しさみたいなもので、浮かれないなんて無理というもの。
「弦楽器や宮廷詩人を従えての騒々しい大名行列」の一行の権威を示す盛大な音楽と、浮かれた巡礼たちの自由あふれる下品かつ陽気な音楽と、カンタベリの町に響く音の対比が面白く感じられます。
カンタベリ大聖堂↓