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韓非子より 紀元前6世紀頃の中国の音楽観

中国の古典「韓非子」は紀元前3世紀頃に書かれたものですが、その中の「十過編」に紀元前6世紀ころの音楽の話があります。概要はこんな話です。

紀元前6世紀ころ衛の国の君主「霊公」が、隣国の「晋」へ旅をし、濮水という川のほとりで宿泊していると、夜中に美しい音楽が響いてきた。しかし、翌朝周囲の者に聞いても何も聞こえなかったと言う。霊公はまるで鬼神の音楽のようだと思い、次の夜にお抱えの音楽家にその曲を聴き取らせて、曲を写し取ることに成功した。
晋に到着した霊公は、晋の君主「平公」の宴会でその曲を演奏させると、その物悲しい音楽を聴いた平公お抱えの音楽家「師曠」が、これは亡国のメロディなので、これ以上演奏してはいけません、と演奏を中断させた。この曲は、その昔、殷の暴君紂王が作らせたもので、殷が滅亡したときに、この曲を作った人物が濮水のほとりまで逃げてきて命を絶ち、以後この曲を耳にした者は、必ず国土を削られてしまうようになったと言うのだった。
しかし平公は、「私は音楽が好きなのだ」と言って、この曲を最後まで演奏させた。演奏を聴き終えた平公が、この曲は「何の声か(何調か)」と尋ねると、師曠は「清商です」と答えた(このころの中国の音楽には、「宮」「商」「角」「徴」「羽」という5つの基本音があり、現代のド、レ、ミ、ソ、ラに近いものらしく、清商とはそのうちの商から始まる音階の一つ)。平公が、清商が最も悲しい曲調だろうかと問うと、師曠は清徴には及びません、と答えた。平公が清徴の曲を聴きたいと言うと、師曠「清徴の音楽は特別に徳の高い君主が聴くものであり、わが君の人徳ではまだ足りません」と諫めたが、平公は「私は音楽がすきなのだ」と言って、清徴の音楽を演奏させた。師曠がやむなく琴で清徴の曲を演奏すると、南の方から鶴が16羽飛んできて、2度目の演奏で鶴たちはきれいに並び、3度目の演奏では翼を広げて舞い、首を長く伸ばして歌い、その声は天高く鳴り響いた。

続いて平公が、清徴よりも悲しい曲調はないか、と尋ねると、師曠は、清徴も清角には及びません、と答えた。平公が清角も聴きたいと言うと、師曠は、清角の調べはその昔黄帝が泰山に登ったとき、鬼神たちを集めて作曲したもので、その曲を聴くにはわが君は人徳が足りません、それを聞けば必ず災厄があるでしょう、と言ったが、平公は再び、私は音楽が好きなのだと言って譲らない。やむなく師曠が琴で清角を奏で始めると、西北から黒い雲が湧き上がり、大風大雨が起こり、幕を裂き、料理はひっくり返り、瓦が落ち、座っていた者は逃げまどい、平公は恐れて控えの間で倒れ伏した。やがて平公は重い病気にかかり、晋の国は日照りが続いて3年間赤く焼けた大地が広がった。

この韓非子の十過編は、君主の十の過ちを書いたもので、君主は音楽にのめり込んではならない、君主が音楽にのめり込み過ぎると国を亡ぼす、というのがその教訓なのだとか。

その教訓が本当かはさておき、紀元前6世紀から紀元前3世紀ころの中国の音楽観には、聴くと国が亡ぶ音楽、徳が低い人は聴いてはならない音楽、聴くと様々な不幸が起こる音楽、という考えがあったのですね。不徳と凶事と没落につながる音楽があると考えられていたわけです。

韓非子には音楽の不吉な力のことしか書かれていませんが、逆に吉につながる音楽というのもあったのでしょうか。聴くと国が栄える、聴けばみんな幸福になる、聴くといいことがたくさん起こる、そんな音楽の発想はなかったのでしょうか。韓非子は中国戦国時代の乱世を生き抜く思想なので、明るすぎる話は現実味が乏しく想像しにくかったのかもしれません。

しかし時が移って現代、音楽の明るい力、幸福を作る力をテーマにしてきたのが、ワンピースのウタというキャラクターで、こういうキャラクターが世界に広がるところに、古代には想像することが難しかった「新時代」の息吹がありそうです。

ウタ 「新時代」 ↓

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