前回、イエズス会はオルガンをはじめ様々な楽器を日本国内で自作して各地教会に設置する体制であったことを書きましたが、楽器には演奏者や歌い手がなければなりません。そこで今日はイエズス会の音楽教育について書いてみたいと思います。
イエズス会は、日本の教育体制として、司祭・修道士育成のための初等教育機関としてセミナリヨ(小神学校)、大学に相当する教育機関としてコレジョを設けていましたが、歌や楽器演奏はセミナリヨの方で教えられていました。
イエズス会の巡察師であるアレッサンドロ・ヴァリニャーノ(冒頭の絵の人)が定めたセミナリヨ指導規程には、セミナリヨで教える内容として、日本語、ラテン語、文章論、倫理、哲学、神学などが挙げられた後、音楽も明示され、「このほか能力のある生徒には歌唱やクラヴォとヴィオラその他類似の楽器の弾奏を学ばせる。それは教会の典礼と諸儀式のため、また盛式の諸祝祭のために奉仕することだろう」として、時間割には、「二時から三時まで歌唱と演奏とを練習」と定められて音楽が正科に取り入れられいます。また日曜祝日休暇においても、歌唱と演奏を用いるべきことが定められ、生徒の成績表には、日本語とラテン語と音楽の成績が記載されて、この三科目が生徒評価の基準になっていました。
ヴァリニャーノが来日した1579年からわずか二年後の1581年の日本イエズス会年報には、セミナリヨの教育の成果が次のように書かれています。
「生徒は学問にも甚だ熱心で、全く期待した以上である。才知と記憶とにおいては、彼らは大いにヨーロッパの少年に勝り、わが文字は彼らの見たことのないものであるにもかかわらず、わずか数か月で読み書きに熟達し、彼らがヨーロッパのセミナリヨにおいて養成する少年よりも勝れていることは否認し難い。…かれらはまたオルガンの歌と、クラヴォを弾くことを学び、すでに相当な聖歌隊があって、やすやすと盛式のミサを歌うことができる」
なお、ここに出てくる「オルガンの歌」と言うのは、オルガン伴奏の歌ではなく、グレゴリオ聖歌に4度又は5度で並行的に重唱するオルガヌムの歌唱のことであろうということです。(海老澤有道著「洋楽伝来史」)
それにしても、西洋の言葉や音楽に初めて接するにもかかわらず、わずかな間に、ヨーロッパの生徒たちにもまさるほど言語や音楽に熟達するというのは、とてつもないことです。一体、イエズス会のキリスト教は、当時の少年たちの心をなぜこれほど捉えたのでしょう。日本古来の神々や仏教では救われなかった戦国の閉塞を打ち破るものにたどりついたような喜びがあったのでしょうか。プロテスタントに勢力圏を奪われた閉塞から海外宣教に乗り出していくカトリックイエズス会と、図らずも相通じて共鳴するものがあったのでしょうか。
ヴァリニャーノがセミナリヨ指導規程を設けてからさらに10年以上がたった1593年、もう迫害のために隠れている状況のセミナリヨで、隠れているがゆえに儀式に一層集中して、次のような様子になります。準管区長ゴメスが有馬のセミナリヨを巡察した時の様子です。
生徒らはラテン語で討論会を行い、その間に合唱や器楽演奏を入れて、盛大かつ見事に諸行事が行われ、「ふつうは聖週間や大祝日に行うようなことを毎日曜日に行っていて、ミサ聖週の間に時には、オルガンなしの本格的なグレゴリオ聖歌を、また時にはオルガン、ヴィオラ・ダルコ、アルポ、ヴィオラや大抵の人が上手に弾きこなすクラヴォなどの伴奏で聖歌を歌っています。その上、他の地方ではできないことなのですが、ここでは晩歌と終歌を歌っています。これらのことは典礼を荘厳に行うためですが、同時に生徒たちの楽しみにもなり、彼らは教会の典礼儀式に親しみ、教会音楽に上達しております」
このように、わずか十数年の間に、日本のキリスト教西洋音楽は、初心者の領域をはるかに超えた高みに到達していたようで、知れば知るほど驚かされます。そして、その後本格化する迫害の中で、高みに到達した音楽が速やかに消え去ったということもまた、大いに驚くべきことのように思われます。
参考文献・洋楽伝来史 海老澤有道著