あれこれいろいろ

ヨーロッパ巡礼の道を多くの楽器が通っただろうという話 

冒頭の地図は、スペイン西部の町サンティェゴ・デ・コンポステーラに繋がる巡礼の道。スペイン西端からヨーロッパ中に張り巡らされた道が整備され、それは海を渡ってイギリスまで到達しています。

サンティェゴ・デ・コンポステーラの町に9世紀に聖ヤコブの墓が発見されると、11世紀に巡礼路が整備され、エルサレム、ローマと並ぶ三大巡礼地のひとつとして、ヨーロッパ中(現在は世界中)から巡礼者を集めるようになりました。巡礼最盛期の12世紀には、年間巡礼者が50万人にも及んだそうで、当時のヨーロッパ全体の人口が5000万人ほどと言われますから、全ヨーロッパ人の100人にひとりが来たという計算になります。ちなみにイベリア半島の地元では聖母マリアの方が人気があったため、サンティェゴ・デ・コンポステーラに来る巡礼者のほとんどはイベリア半島外から遠路はるばるやってくる人たちだったそうです。

次にこれはイギリス国内の巡礼の話ですが、14世紀のカンタベリ大聖堂を目指す巡礼者の様子について、ウイリアム・ソープという人がアランデルの大司教に語ったところによると、「あらかじめ、淫らな歌のうまい男女を一行の中に加えておきます。また、他の巡礼はバグパイプをたずさえていくというふうで、巡礼が通過するどの町も、彼らの歌の喧騒、バクパイプの音、それにガンガン鳴るカンタベリの鐘の音、一行のあとを追う犬の吠え声、おかげで、弦楽器や宮廷詩人を従えての騒々しい大名行列が通過するときよりもやかましいほどでありました」(C.K.ザカー、<好奇心と巡礼>)と言う記録があります。

またスペインバルセロナ近郊のモンセラート修道院への巡礼者向けの歌曲が書かれたモンセラートの朱い本(14世紀)には、その編集意図として、「巡礼者たちは、ノコギリなる山(モンセラート)の祝されしマリアの教会で起き続ける時、また昼の場においても、時には歌うことや踊ることを望むものであるが、そこ(教会)では誠実かつ敬虔でない歌を歌うべきではない、そのため上と下にいくつか(の歌)が記された。そして、これは、祈りと熟考に身を捧げることを続ける者を妨げることの無いように、誠実に適度に用いるべきである」と書かれており、当時の巡礼者たちが歌い踊ることを好んだことがわかります。その書きぶりからすると、どうやら巡礼者たちは誠実でも敬虔でもない歌を好み、祈りや熟考の妨げになるくらい騒がしく、不誠実かつ不適度に歌ったらしいという実態が透けてみえます。

また、14世紀に書かれたカンタベリー物語では、イギリス南部のカンタベリ大聖堂の巡礼をする30人の男女が、宿屋で一緒になった縁から、地位と職業の違いを超えてにぎやかに旅を共にした様子がわかります。

これらの資料から中世ヨーロッパの巡礼者の活気あふれた様子が見えてきます。そこにはヨーロッパ各地の歌と踊りがあり、おそらく旅に携行された様々なタイプの楽器があったことでしょう。歌と楽器が運ばれた道としての巡礼路をあらためて考察してみると、庶民音楽の伝播の様子が見えてきそうです。しかも、地域を超えて伝播するばかりでなく、地位と職業を超えて伝播する場にもなり得たということは、注目に値します。

たとえば15、16世紀には、スペインの庶民的な楽器だったルネサンスギターがヨーロッパ全域に(海を越えてイギリスにも)広がり、しかも貴族、騎士、聖職者、下層市民等、階層を横断して弾かれていたようなのですが、これは様々な階層の巡礼者たちがスペインから持ち帰ったことで広がったという可能性は十分にあると思います。

というわけで、ヨーロッパ各地の歌と楽器の移動交流路としての巡礼路に注目しています。次の写真は現在世界遺産にもなっているサンティェゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路の一部です。

それからついでに、これも道として世界遺産となってるもうひとつの場所が、紀伊山地の参詣道です。こちらもやはり巡礼の道ですね。地図が一瞬イベリア半島の巡礼路かと見間違えて、地図のダジャレという変な大喜利ポイントを突かれてニヤけてしまいました。

 

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