人間が生きるために必要なことをAIが何でもやってしまうようになると、人間は生きるために必要ではないことをして生きるようになる、という仮説を聞きました。
衣食住の生産分配、経済活動、医療、介護、消防、警察、清掃など、それがなければ生活や社会が破綻してしまうような活動の多くが、AIとロボットのシステムに代替されていくと、音楽、芸術、スポーツ、哲学、ゲーム、祭り、デザイン、装飾、芸能など、それがなくても生きて行けるが、それをすると豊かだと感じる活動に、人間はいそしむようになるというわけです。確かにそういう動きは増えていきそうです。
アリとキリギリスの童話を思い出します。アリは働きもので生活のために必要なことを準備していたので冬に困らなかったが、キリギリスは生きるために必要ではない音楽にうつつを抜かしていたので冬にとても困りましたという、この労働価値観がもし180度ひっくり返ってしまったら、さて人間は耐えられるのでしょうか。ただの怠け者になってしまったような気分に陥り、人生の中心軸が失われたような、モラルの危機のような、そんな不安にかられるかもしれません。
何とかして人生の中心軸を取り戻すために、「人間とは何のために生きる存在なのか」という根源的な問いまでさかのぼって考える必要に迫られそうです。そしてある人は宗教に、ある人は家族や友人や共同体に、ある人は自然や宇宙や哲学に、という具合に、様々な方面に人生の中心軸を求めていくのでしょう。
今後、人類がどんな中心軸を見つけるのかは不透明です。人それぞれに異なる中心軸を見つけて多様な生き方が広がるかもしれません。そもそも、人生に中心軸が必要だという発想を捨ててしまうところまで突き抜けてしまう可能性もあります。今日は音楽、明日は庭仕事、次の日は友人と遊び、その次の日は何もしない。それぞれの活動に人生全体を正当化するような意味がなくても、十分に豊かな人生を送れる。そんなふうに、「中心軸の喪失」というよりも「中心軸を必要とする人生観からの解放」というような境地に到達するかもしれません。
もしそうなったら、音楽を楽しむことの意味も、大きく変わりそうです。音楽は、優れた作品を生み出すための活動というだけでなく、人間が生きていることそのものを楽しみ、他者と喜びを共有する活動として、新しい意味を持つようになっている可能性があります。そのとき、キリギリスの音楽は、生きるために必要がないことと言うより、生きることそのものへと再定義されているのでしょう。アリの活動もまた、必要という考えから抜け出して、ただそれをしたいからするという、ひとつの生き方に脱皮してしまうのかもしれません。
