天皇家累代の霊物とも言われる琵琶「玄上(玄象)」。玄上と玄象は別の琵琶とも同一の琵琶とも言われるのですが、本日は特に区別せずに玄上(玄象)に関する種々の逸話についてのお話です。
ちなみに玄上の元の持ち主は大唐琵琶博士の廉承武で、それを839年に日本琵琶楽の祖藤原貞敏が唐から持ち帰ったと言われていますが、定かではありません。1401年に伏見殿御所の火災とともに消失した可能性が高く、最長で560年間日本に存在した楽器ということになります。
この玄上は様々な不思議話で彩られており、そこに玄上に託した当時の人々の夢の中身が見えてきます。
まずは、今昔物語集にある玄上の逸話の要約をひとつ。
今は昔、村上天皇の御代、皇室に代々伝わる宝物の琵琶「玄象」が突然消えてしまった。天皇を快く思わない人が盗んで壊してしまったのだろうかと、天皇は疑いひどく嘆かれた。その頃、源博雅という管弦の達人の殿上人がいた。ある晩博雅が清涼殿に宿直していると、南の方角から玄象を弾く音色が聞こえてきた。聞き間違いかとも思ったが、耳を澄まして聞いてみると、やはりまさしく玄象の音色である。博雅は大いに驚き怪しみ、衛門府(えもんふ)の衛兵の詰所を出て南のほうに行くと、さらに南から音が聞こえる。朱雀門(すざくもん)まで来るとさらに南のほうから聞こえる。朱雀大路を南に向かい楼観に着くと、さらに南のほう、ごく近くから聞こえる。とうとう羅城門(らじょうもん)にまで至った。門の上の層で玄象を弾いているようだった。博雅は奇怪に思い、「これは人が弾いているのではあるまい。きっと鬼などが弾いているのだろう」と思った途端に弾きやんだ。しばらくするとまた弾きはじめた。博雅は、「これは誰が弾いておられるのか。玄象が数日前に消え失せてしまい、天皇が捜し求めておいでになるが、今晩、清涼殿にて聞くと、南の方角からこの音色がした。それで、尋ねて来たのだ」と言った。すると弾きやんで、玄象に縄を付けて天井から降ろしてきた。博雅はこわごわこれを取って、内裏に帰り参上して事の次第を奏上し、玄象を献上したので、天皇は大変感激され、「鬼が取っていったのだな」と仰せられた。人々は皆博雅を褒めたたえた。玄象は今、朝廷の宝物として内裏に収められている。この玄象はまるで生き物のようである。下手に弾いて弾きこなせなければ、腹を立てて鳴らない。また、塵が付いてそれを拭い去らない時にも、腹を立てて鳴らない。その機嫌の良し悪しがはっきりと見える。いつであったか、内裏が焼失した時にも、人が取り出さずとも、玄象はひとりでに庭に出ていた。いずれも不思議なことであると語り伝えられているということだ。
また、能の「玄象」のあらすじはこんなふう。↓
(前場)
琵琶の名手、藤原師長が従者と共に、琵琶の奥義を極めるために唐土(中国)へ渡ることにし、その前に津の国須磨の浦(神戸市)を訪れた。浦では、老夫婦が美しい浦の景色を眺めながら汐(海水)を汲んでいた。夫婦が塩屋に戻ると従者が宿を乞うた。夫婦は有名な師長の琵琶を聞けるめったにない機会と喜び塩屋に通した。夫婦が琵琶を勧めると、師長は奏で始めるが、折から村雨が降り出して雨音を立てた。主は板屋根の上に苫を乗せ雨音を整えたので、「どうしてそんなことをするのだ」と問うと、今の琵琶の音は黄鐘調(おうしき…十二律の一)で、板屋を敲く雨の音は盤渉調(ばんしき)なので、苫をのせ一調子にしましたと答えた。この老人は只者ではないと思った師長が一曲所望すると、翁は琵琶を、姥は琴を弾いた。その余りの名演に、師長は自分の未熟を悟り、渡唐を諦めようと塩屋を立ち去ろうとした。夫婦はこれを引き留め、自分たちは琵琶「玄象」の持ち主である村上天皇と梨壺の女御の霊であると名乗り、師長の渡唐を留めるために現れたと明かして姿を消した。
(後場)
村上天皇が現れ、玄象、獅子丸、青山の三面の琵琶の由来を述べ、龍神に海に沈んでいる獅子丸をもってこさせ、師長に賜り弾かせた。天皇も秘曲を弾き、舞い楽しみながら空飛ぶ車に乗って天上へ帰っていき、師長は飛馬に乗って都へ帰っていった。
また、源平盛衰記には、師長が西国に流罪となった時に、玄象が童子に姿を変えてついて来たという伝説などもあります。
つづく